逗子市観光協会会長 山上 良 氏

このまちを翔ける

逗子市観光協会会長 山上 良 氏

インタビュー:伊藤聖乃 文:白田祐子

 JR逗子駅の改札を抜けて見るまちは“クール&クリーン”。海辺のリゾートの雰囲気もありながら、軒を並べる商店街は活気に溢れ、このまちに住む人々の暮らしが伝わる。2020年3月に名称変更された、京急「逗子・葉山」駅(旧名「新逗子」)を右手に見て、逗子湾に流れる田越川を渡ると街並みは落ち着く。そこに、ひときわ目を引くライトブルーの壁面に赤いロゴマークを掲げた『YAMAKAMI MOTORS』がある。

 整備場でエンジンを覗き込むメカニックに来意を伝え、バイクが整然と並ぶ店頭を抜けると、奥からマスク越しでもわかる笑顔でその人は現れた。有限会社山上輪業代表取締役にして、逗子市観光協会会長の山上良だ。

 長年、逗子のまちの発展に貢献し、多くの仲間たちを見守ってきた、そんな彼の生い立ちとバイクとの出会い、仲間との絆や逗子への尽きない想いについて話を聞いた。

長男誕生に季節外れの“鯉のぼり”が舞う

 山上輪業は昭和20年代に山上の父が創業した老舗である。当初は自転車から自動車まで「輪っかのあるものは全て」取り扱っていたが、現在はバイクに特化して、販売と修理・整備を行っている。山上は昭和32(1957)年6月、そこの長男として生まれた。逗子を舞台にした作品『太陽の季節』に憧れた「太陽族」が、このまちを闊歩していた頃だ。

 「長男と言っても、姉が3人いるので末っ子ですよ。ただ、男の子の誕生に親父が喜んだらしくてね。6月13日生まれで、端午の節句はとっくに過ぎているのに、あまりに嬉し過ぎて鯉のぼりをあげたらしい」

 喜びと期待を胸に6月の空を見上げるお父上の姿が、山上の笑顔と重なり見えた気がする。お母様やお姉様たちもさぞかし可愛がったに違いない。

 「そうなんだよ。小さい時は姉たちにスカートを履かされたり、化粧をさせられたり、着せ替え人形のようにされた(笑)。おふくろ?おふくろは商売を手伝っていたからね。忙しくてそれどころじゃなかったのかな」

厳しく育てられた幼少時代

 鯉のぼりをあげるほど喜んだ父だったが、物心がついた頃から、山上は父の厳格さに向き合うこととなる。

 「親父は厳しかった。食事は親より先に食べちゃダメ、食事中に喋ってはいけない、朝は常に掃除から始めるなど、小さい頃からルールがあって、とても厳しかった。姉たちはおふくろの手伝いをしていたから、それほどではなかったかな」

 厳格な父は15年前に他界した。
「これまで親父と一緒に何かをしたという記憶はないね。いつも別々で、あまり親父に接することもなかった。何度か釣りには行ったかな。思い出すことは、とにかく厳しい人だったということ」

「きちんと、ちゃんと」のプレッシャー

 幼い頃から“きちんと正しく、お行儀よく”と躾けられた山上は、細かなことにも神経を研ぎ澄ませるようになる。

 「とにかく神経質な子供だった。例えば、洋服の袖口を折り返すとき、左右対称にきっちり合わなきゃ気が済まない。幼稚園で靴箱に靴をしまうとき、靴底についた砂が気になる。ちゃんと払ってもまだ気になる。だから、教室に入るまで時間がかかる。そんな感じだから、ある日、親が先生に呼ばれて『あの神経質はなんとかならないか』と注意されたくらいだった」

 父の厳しさが心に影響を与えたのだろうか。
「昔は今と違って、親が子に手をあげるのは、そんなに珍しいことではなかった。俺も親父にずいぶん殴られた。だから、きちんとしなくてはいけないというプレッシャーが相当あったね」

交通事故からの生還

 そんな神経症気質はある出来事がきっかけで一変する。交通事故だ。小学1年生のとき、酒気帯び運転のバイクと接触した。頭に石がのめり込むほどひきずられ、救急搬送される。長い期間、病院で過ごし学校にも行けなくなった。

 「ぶつかった時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。でも頭を強く打って、事故前の記憶を失った。不思議なことに、それと同時に細かいことを気にし過ぎる自分もいなくなった」
歳を重ねることで、昔の記憶は少しずつ戻ってきた。

仲間との″つながり”で、生まれた″絆”

 大事故を乗り越えた後は大好きな運動で能力を発揮する。それと同時に大勢の前に立ち、仲間をリードすることが増えた山上は、その場の状況を素早く察知して、和気あいあいとした雰囲気を作るセンスを身につける。

 「小学生の頃、体育委員をしていて、朝礼のラジオ体操の時間はステージに上がり、みんなの前で手本をしていた。みんなと逆にするのは案外難しくてね。運動神経はいい方だったし、東京オリンピックもあったから、将来は体操の選手になるのが夢だった」

 中学ではバスケットボールを始める。チームプレーだ。
「楽しかったね。仲間との絆ができて、友達同士のルールもわかった。人との距離間とか付き合い方とか。そういうことがわかり始めるきっかけだった」
今でもチームメイトに会うと、あの頃に戻れると笑う。

バイクに夢中になった青年時代

 高校に入るとスポーツよりも夢中になるものを手に入れる。生まれた時から身近な存在だったバイクだ。それも750CCの大型バイク。山上は16歳になるのを待っていた。

 「高校に入るとやんちゃ一本で、おふくろにはずいぶん迷惑をかけた。16歳からナナハン乗って、しょっちゅうこけてね。月に1度はバイクの色変えを自分でしていた。でも、なかなか上手くいかなくて、やり直しの繰り返し」

 当時、流行っていたのがダウンタウンブギウギバンド。みんな真似をしたくて、つなぎが欲しいと山上に頼んだ。バイク全盛期に、普段からつなぎを身につけナナハンで現れる。仲間たちの憧れの存在だったに違いない。
「そんなことないよ。つなぎはね、汚れていてもいいって言うから、ずいぶんあげた。みんな喜んでくれたよ」

人で苦労したからこそ、強い結束を守り抜く

 少しやんちゃでバイクに夢中だった少年は高校を卒業すると、関東学院大学の二部に進み、昼間は父が経営する店を手伝った。24歳の頃に店を継ぎ、44歳で社長に就任。しかしすぐに人を育てる難しさにぶち当たる。やっと仕事を覚えたと思ったら辞めていく。その苦労は父の時代から、山上が社長になっても変わらず続いた。

 「当然、揉め事も起こる。あれは精神的にとても辛かった。今は妻と娘、息子たちとお嫁さんの家族経営だから、人の心配からは解放された。本当はそんなことじゃダメなのかもしれない。でも、あの苦労は二度としたくない」
今は幸せだときっぱり言う。

ツーリングで磨きあげた″人をまとめる力”

 1980年代から山上が率いるツーリングチームがある。揃いのジャケットに身を包み、新型コロナウイルスの感染拡大前は毎月1回のペースで風を切って走っていた。

 「既存のものに参加するのは好きじゃない。企画から考え、楽しく、明るくやるのが好き。まぁ、自分勝手なだけかな」
そう謙遜するが、多い時には総勢30名ほどが集結し、40年以上続けているのだから、人を惹きつけ、人をまとめる力なくしては、現実しないだろう。

焦らず、慌てず、あきらめない

 社長就任後に決めたモットーが“焦らず、慌てず、あきらめない”「基本的に僕はすぐに焦っちゃう。そしてすぐに諦めちゃう。だから自分に言い聞かせるつもりで掲げた」“お客様を満足させる”というようなモットーは「おこがましい」という。

 「常にお客様の立場で考え、期待に応えてあげたい。そのためには安全で安心で、その場に合わせた対応がしっかりできることが大切。観光客に対してだって、それは繋がっていると思う」

 20代で青年会議所と商工会の青年部に入会すると、切磋琢磨しながら地域住民とのつながりを深め、ネットワークを広げていった。でも、「絶対に高飛車になってはいけない」自分自身にそう言い聞かせ続けた。「地域のため、この頭でよければいくらでも下げる」と周囲に伝え、そういう気持ちで活動してきた。

 「みんなに好きになってもらえなくてもいい。嫌われなければいい」と、真摯な態度を貫き、2018年に商工会副会長と観光協会会長を兼務し現在に至る。

絶対に成功させる!意識改革

 数年前から逗子の花火大会は運営費用の不足が課題となり、様々な企画が試されてきた。山上が考える成功への道しるべを聞いた。

 「2018年に有料席の販売をしたけれど、実はあまり利益はあがらなかった。だからもう一度見直した。例えば、チケットエリアに椅子を置くのもいいけれど、砂場を桝で地割するだけの方がお金はかからない。そんな話し合いを地道に続けていると、結果的にこれまでにない協賛金が集まった」

 それだけで資金が潤沢になるはずはない。他に秘訣があったのではないか。しかし山上は、「みんなで団結したから成功した」と言い切る。「地域住民や地元の企業、みんなで一緒に課題を解決していこうと努力した。一人一人が持つ問題意識が、大きな成果となって実を結んだ」

 2019年逗子市花火大会は台風の多い晩夏に開催された。「仲間のためにも何とか晴れてくれ」と山上は願った。そして9月の空に、沢山の想いが詰まった花火が打ちあがる。

マンパワーが願いを叶える鍵となる

 人と人をつなげ、意識を高め、いい意味でみんなを巻き込みながら、一丸となって実行に移す。山上が小さな時から注目していたチームワークはまち全体をチームにした。

 「トップダウンではダメだと感じていた。だから僕はみんなと同じ目線で会長をさせていただいている。そうすると、みんな言いたいことを言ってくるから、まとめるのは難しい。でも、それでいいと思う」

小さな力を大きな力に変える。逗子スタイル”

 逗子海岸での観光イベントは大小問わずほぼ毎月開催されている。「鎌倉のように大きなスポンサーは付かないから、イベントを成功させ、定着させ、集客していくには、小さな団体同士が手をつなぎ、協力していくしかない」そのために観光協会が手助けし、バックアップしていく。

 「それと重要なのは、実行委員会をしっかり構築すること。それは花火大会も含め、僕が観光協会の会長として実現化した、大切な一つ。どんなことも1人ではできない。誰かに任せたり、頼ったりしながら、協力していく。そういう体制を作っていくことが大事。僕自身、細かなことは得意な人に任せて、自分は広く全体に目配りをしながら物事を進めていくようにしている」

海がある。それだけでいい″自然体のまち“

 「逗子のまちは小さい。宿泊設備も少なく、あるのは海だけ。でも、ここで暮らす人はみんな、このまちを愛している」と、山上はいう。今から5年ほど前、古くから続く海の家を引き継いだ。そこで、海の持つ魅力を再認識することとなる。

 「海の家から来場客を見ていると、みんな、『海だ!』と叫びながら、砂浜を蹴っていくんだよね。『海の匂いがする』とか。自分には見慣れた景色をこんなに喜んでくれるのかと驚いた。だから、『海しかない』で、いいじゃないかって思えたし、素直な気持ちで歓迎して、心からおもてなしをしたいと思った」

逗子の海とブルーフラッグへの想い

 逗子在住のアーティストが企画し、山上が実行委員長を務めるイベントに「ナイトウェーブ」がある。夜光虫が光るように白波が青く輝き幻想的だ。

 「ナイトウェーブは冬のイベントでかなり寒いけれど、ロマンチックだから一度見に来てほしい。逗子の海はきれいでしょ。透明度が高くて、海底にもゴミはない。僕は10年位前からオーシャンスイムを日課にしていて、いつもこの目で海の中を見ているから、よくわかるんだ」

 山上が湘南一美しいという逗子海水浴場はいま、国際環境認証「ブルーフラッグ」の取得を目指している。取得できれば日本で6例目、湘南では片瀬西浜・鵠沼海水浴場に次いで3例目となる。

 ブルーフラッグとは、デンマークに本部がある国際NGO FEE(国際環境教育基金)による世界で最も歴史ある国際認証制度である。「水質」「環境教育と情報」「環境マネジメント」「安全性・サービス」の4分野、33項目の認証基準があり、毎年審査を受けて更新する必要がある。基準を満たしたビーチ、マリーナ等はその証として、青いフラッグを掲げることができる。

 山上はブルーフラッグへの思いも語ってくれた。
「逗子海岸は入り江になっているので、風が穏やかでマリンスポーツが盛ん。みんな仲もいい。〝きれいな海と仲間たち“、なんで、もっと早くブルーフラッグじゃないの?と思っていた。地域住民がブルーフラッグの存在を知ったら、海への愛情や環境に対する意識はますます高くなると思う。行政ももっと海の環境に目を向えてくれるかもしれない。だって『ゴミがあってもしょうがない』ではダメでしょ。そういう意識の高まりは、おもてなしの心に通じると思うし、今まで以上に安全で安心な、自然豊かな海になると僕は信じている」

日々パワフルに充電し続ける

 今は7人の孫たちの成長を見届けるのが楽しみの一つだ。時間があるときには孫と遊び、奥様と食事やショッピングにも出掛ける。一方でジョギングとオーシャンスイムは毎朝の日課というのだから、「ストイック」と自認するのも頷ける。「朝早くジョギングをしていると、ゴミ拾いをしている人に必ず会う。だから、『ありがとう。ご苦労様』と声かけをしながら走っている」誰よりも行動するパワーは、日々の習慣の積み上げで生まれているのだろう。

 そして、感謝の気持ちは途切れることがない。高校2年の時、店舗兼自宅が火災にあう。周囲は騒然としたが、地元の消防団や地域住民が駆け付け、自転車やバイクを近くの体育館まで避難してくれた。火災から18年、地元消防団に空きが出ることを知ると、「当時の恩返しがしたい」と、迷わず入団した。来年には活動開始30年を迎える。

 「早くコロナが終息し、マスクなしで自由に楽しめることができるといいね。少し時間がかかるかもしれないけれど」
山上はそう言葉を結んだ。

 インタビューの終了を告げると、「ところでバイクは好き?色々あるから見ていって」と目を細めた。(了)