株式会社リビエラリゾート 代表取締役社長 小林昭雄氏

大自然と共に心豊かに生きる

株式会社リビエラリゾート 代表取締役社長 小林昭雄氏

 ヤシの木と白い建物が建ち並ぶ海外のリゾートのような景色が広がるリビエラ逗子マリーナ。ホテル、レストラン、カフェ、イベント会場、ブライダル、テニスクラブ、リゾートマンション、ショッピング、そしてマリーナ。日本で最もセーリングが盛んな地域である相模湾に面し、海上係留約 40 艇、陸上艇置約 150 艇のキャパシティーに加え50余年の歴史を持つこの施設は、マリーナとして日本初のブルーフラッグ取得を目指している。

 リビエラ逗子マリーナ、リビエラシーボニアマリーナ(小網代湾)を所有・運営し、ホテル、レストラン、不動産、ブライダル等のライフスタイルビジネスを展開しているリビエラグループの中核企業・株式会社リビエラリゾートの代表取締役社長、小林昭雄氏にお話を伺った。非常に柔和な第一印象に反して、かなり体育会的な経歴を持つ小林氏の半生とビジョンについて語っていただいた。

エースで3番の野球少年

 1967年生まれ。海老名で育つ。昔の海老名は、モールもなく、カエルの声が鳴り響く田舎町だった。
「子供の頃は家族や友人と、よく茅ヶ崎や藤沢に行って海水浴をしていましたね。」

 祖父母、両親、兄、の6人家族。実家は材木屋を営んでおり、朝から晩まで働いている大人の背中を見て育った。「自由放任というか、やりたいことをやらせてもらいました。」
小学生で野球を始めた。運動神経が良く、エースで3番!だった。中学の野球部は、当時どこの野球部もそうであったように、昭和スポ根の厳しい練習だった。「うさぎ跳びやケツバットなどはあたりまえでしたね。」

 中学3年の大事な試合の最終回でファーボールを連発、球は速かったがコントロールが悪く押出しで敗戦したことがあった。顧問に長時間こってり絞られたが、チームメートが待っていてくれた。苦しい練習を乗り越え、そして友情を得た経験が、後の人生の糧となった。

肩を壊しバレーボールに転向

 父と兄の母校でもある公立のトップ進学校の厚木高校に入学。中学時代に肩を壊してしまったため、高校では瞬発力を活かせるバレーボール部に入部した。厚木高校バレーボール部は藤沢商業や法政二高などの強校がひしめき合う神奈川県で関東大会出場を目指していた。未経験であり、バレーボール選手としてはけして背も高くはなかったが、レギュラーを勝ち取った。

 部活引退後、いよいよ大学受験というタイミングで、急な方向転換を決意した。国立理系コースのクラスだったが、白衣で研究をしている自分の姿がイメージできず、3年の冬に文系に転向した。その後、東京大学文科Ⅱ類に進学。経済学を専攻した。
大学でもバレーボールクラブに所属。バイトなどの社会勉強に勤しみ、また大いに遊んだ。
「当時は自分のことを湘南ボーイとか浜っ子などと言っていました。地方から出てくる人が多い大学の友人から見たら、海老名も湘南もあまり違いはないかなと。」
車が好きでドライブもよくした。その目的地の中には逗子マリーナもあった。
「当時はカーナビがなかったので、行き方がわからず迷いました(笑)。」
その時は、自分がそこで働くことになるとは、思いもしなかったに違いない。

バブル絶頂期に厳しいことで有名だった野村證券に就職

 バブル絶頂期に就職をした。どこでも行きたい会社にいける時代だったが、体育会の血がそうさせたのか、選んだ会社は、職場が厳しいことで有名だった野村證券。自らを鍛えたいと考え、あえて茨の道を選択した。野村證券には過去最大の550名の同期が入社。当時は新入社員を含め、独身社員は基本的に寮生活だった。夜中まで仕事をした後に飲みに行き、始発で帰宅。それでも朝のミーティングには全員が平然として顔を揃えた。「土日はマーケットがやっていないので休めるのですが、日曜日の夕方には、いわゆる“サザエさん症候群”で、寮の中が重苦しい雰囲気でした。」

 先輩や顧客に鍛えられる日々だった。
「大手金融機関を担当していたので、各証券会社のトップセールスとの競争でした。朝イチから“場”が引けるまで、両手に受話器を持って電話をかけました。担当顧客へ電話が繋がっても勝負は数分。その数分のために入念に準備もしているのですが、お客様にとって有益な話でなければ、そんなつまらん話で俺の大事な時間を削るな!と怒られました」

18年勤めた野村證券を退社しリビエラへ

 同じ会社で働いていた女性と結婚したのだが、彼女の父親が、リビエラグループの代表(現会長)だった。小林氏は、この縁で全く新しい世界に挑戦することとなる。

 第二子が生まれた2008年、野村證券を退社し、リビエラに入社。2017年から代表取締役社長となった。全く異なるフィールドに飛び込んで見えた景色はどのようなものだったのだろうか。
「利用されるお客様の愉しまれている笑顔を直に見ることができる。時には涙ながらに感謝される。その体験は、前職で味わうことがなかったものですね。」

自然に優しい会社でありたい

 マリーナ事業は自然から恩恵を享受するビジネスだ。自然に優しい会社でいること、そのための取り組みは15年と長い。
「2001年にリビエラはマリーナの事業を承継しました。この環境を守っていきたいと、2006年に『リビエラ未来創りプロジェクト』を立上げ、将来を見据え様々な取り組みを行ってきました。社風として根付いた当たり前の活動のため、今まではあまり発信していませんでしたが、我々の活動を発信することが触媒やきっかけとなって、様々なムーブメントが生まれることを実感しています。2030年を見据えサステナビリティの連鎖を起こしたいと願い”ハブ”としてリビエラSDGsフェスもスタートしました。」

 環境、教育、健康医療を3本柱にその活動は、多岐にわたる。
「レストランで出た野菜くずなどを処理し、堆肥として自社菜園や三浦の農家で使い、そこで収穫した野菜を再びレストランで提供する、といった食の完全循環にも取り組んでいます。リビエラ海洋塾や一般社団法人日本海洋アカデミーなどの海洋プログラムでは、海の楽しさ、厳しさ、豊かさを教え、アマモの育成支援、ビーチクリーン、など相模湾で様々な活動をしています。6千人以上の小中学生が、リビエラの海洋プログラムを体験し、海に出る楽しさを味わい、海洋保全の大切さを感じてくれています。そして、子どもに教えることができる海のプロを養成するコースも用意しました。」

 海が危険だと考える人が増え、海離れが進んでいると言われるが、海の厳しさとリスクマネジメントをしっかりと学ぶことで、海を楽しむことができるようになる。ヨットが風上に走ることも知識として教わるのではなく、体験を通して学ぶことができる。また、健常者だけでなく難病や障害のある子どもたち、児童養護施設の高校生など、あらゆる青少年を対象にした、誰もが楽しめる海上体験を提供している。

「磨き上げ」というこだわり

 リビエラの将来について、その展望を語っていただいた。
「リビエラでは“古き良きモノを磨き上げ次の世代へ”という理念が根付いています。池袋のリビエラ東京は築71年の木造ですし、三浦のリビエラシーボニアマリーナは53年、リビエラ逗子マリーナでは一番歴史ある本館が、築約50年になります。また、1927年に建造されたクラシックヨット『シナーラ』のレストア(本格修復)を、この度、世界 12 カ国から 50 人の職人たちを招聘し自らの手で6年半かけて完成させたばかりです。施設やモノを磨き上げることで、スタッフの心も磨かれます。そうやって由緒と格式のあるブランドにしていきたいと考えています。」
磨き上げる、というこだわりは、施設にとどまらない。
「湘南は、自然、文化、食材、といった価値を持っています。こういった価値を活かしつつ、地元にこだわりながらも、世界を意識してブランドを磨き上げていきたいと思います。」

 世界から認められるという文脈において、国際環境認証であるブルーフラッグの取得を目指すことは、自然な流れだったのだろう。
「ブルーフラッグの厳しい認証をクリアすることで、自己満足でなく、説得力が伴います。認証を受けることで襟を正すというか、自らを追い込むことができます。」

充実したライフスタイル

 最後に小林氏のプライベートについて伺った。
「リビエラで楽しまれているお客様に直接会う毎日で充実しています。また、セーリングやフィッシングをして海に佇むことで癒され、心身共にバランス良くリフレッシュを実感しています。オフシーズンには、レース経験のあるスタッフとチームを組んで、リビエラ主催のヨットレースに参戦したりもしています。」
その笑顔から、リビエラが標榜している“充実したライフスタイル”を送っている様子が感じられた。