ビーチサッカー選手 原口翔太郎氏

海とビーチサッカーに魅せられて

ビーチサッカー選手原口翔太郎氏

インタビュー・文 / 白取朋恵・片山久美

鎌倉の由比ガ浜海水浴場が、海辺の国際環境認証「ブルーフラッグ」を取得して6周年。5月とは思えない、初夏の暑さを感じさせるこの日、ビーチスポーツ体験&海の環境教育イベント「BEACH SPORTS FESTIVAL in YUIGAHAMA」が由比ガ浜海水浴場で盛大に開催された。

ビーチスポーツ界のトップアスリート達をゲストに迎え、海の環境問題についても楽しく学びながら子どもや大人も気軽にビーチスポーツを体験できるというこのイベントで、一際ダイナミックなプレーを披露するプロ選手の姿があった。

原口翔太郎。

2012年からビーチサッカーの日本代表候補となり、2015年と2017年にはW杯出場を果たす。2020年には世界クラブ選手権ベスト4入りの主力選手として活躍。ビーチサッカーに魅了された原口の道のりを追いかけた。

プロサッカー選手への憧れ

1987年、神奈川県川崎市生まれ。サッカーが好きだった父親の影響を受け、原口は、小学校1年生からサッカーを始め、地域のサッカーチームへ入団した。

「毎週土日に多摩川の河川敷での練習に行くのが楽しみで、毎日泥んこになってサッカーをしていました。弱小チームだったので、負けて当たり前。試合でもあまり勝った思い出はありませんが、純粋にサッカーが好きという気持ちで楽しんでいました」

1991年に日本で初めてプロサッカーリーグ「Jリーグ」が設立され、1993年にはFIFAワールドカップアメリカ大会アジア地区第1次予選で日本代表が予選を突破。日本中が日本代表やJリーガーの活躍に熱狂するなか、原口も例外ではなく、練習が終わると川崎を本拠地とするヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ)の試合観戦に行くのが週末の楽しみとなっていた。

「スタジアムでカズ(三浦知良)選手や北沢豪選手、ラモス瑠偉選手などのプレーを見ていて、『かっこいいなあ、自分もいつか同じピッチに立ちたいな』と思いながら一生懸命応援していました。時を経て、25年後、まさか自分がヴェルディの肩書きを背負ったサッカー選手になれるとは、当時は思っていなかったですね」

 

文武両道を成し遂げた中高時代

地元の中学校へ進学した原口は、部活動でサッカーを続けた。人数も少なく、監督もサッカー未経験者で、思うようにサッカーができない中学での3年間は、プロサッカー選手を目指す原口にとってはきつい日々だった。

「技術云々以前に、試合で11人いないとか、サッカーができる条件が揃わなくて。サッカーが一番嫌いだった2年間だったと思います。それでも、プロ選手になりたいという思いはあきらめられませんでした。うまい選手と思う存分にサッカーをするためには、サッカーの強い学校に行くしかない。サッカー推薦は無理だったので、受験勉強で強豪校に挑みました」

高校受験に向けて塾に通い、猛勉強の末、強豪校の川崎市立橘高等学校へ入学。そして目標通りサッカー部に入ったのである。

「各中学やクラブチームからトップクラスの選手が集まっていましたので、最初は試合に出られませんでした。練習もハードで、今では考えられないような『愛のムチ』をもらいましたね(笑)。おかげで心身ともに成長し、試合にも出られるようになりました」

高校3年間では、神奈川県ベスト8という功績と、それ以上に、ともに戦った仲間たちというかけがえのない財産を得ることができた。

「高校時代のチームメンバーとは今も交流しています。ライバルであり、戦友でもあった仲間ですね。みんなもう普通に就職して、サッカーは趣味で、という人ばかりですが、いまだにアスリートを続けている私を心から応援してくれているんです」

サッカー部1期生のキャプテンとして

高校3年間、サッカー漬けの日々を過ごした原口は、部活動を引退したのち、顧問の先生からの後押しを受け、サッカー推薦で松蔭大学に入学。松蔭大学サッカー部に入部した。

松蔭大学サッカー部は、松蔭女子大学から共学に伴う校名変更を契機に設立された部であり、原口はその1期生として迎えられ、キャプテンに任命されたのである。

「キャプテンとしてとても貴重な経験になりました。サッカーを頑張っただけではなく、1期生みんなで試行錯誤しながら“サッカー部”というチームを創り上げることができたのは、なかなかできない良い経験だったと思います」

チームづくりというまさにゼロからの挑戦を、原口は、4年後、神奈川県大会準優勝という結果に結実させたのである。しかし、大学3年生の頃から、サッカー選手としての自分の限界にも気づき始めていた。

「企業からの声もかからなかったし、トップ選手の世界にはどうしても届かない。それならば、サッカーではない道を考えないといけないと。それまで勉強もバイトもキャンパスライフも二の次でサッカーに打ち込んでいたので、将来のキャリアを考え、ゼミで経営の勉強を始めました」

一度やると決めたらどんなときでもとことん努力する原口の姿勢は、学業にも遺憾なく発揮され、卒業時は学年でもトップの成績に。創部間もないサッカー部を、キャプテンとして県大会準優勝に導いた実績も相まって、ゼミの教授の推薦で、東芝系列の大手企業に就職することができた。

ビーチサッカーとの運命的な出会い

初めての社会人生活は、同時に、初めてのサッカーと縁のない生活となった。それでも、給料をもらい、友人と好きなところに遊びに行ったりと、今まで経験してこなかった普通の毎日を楽しんでいた。

就職して半年が経ったある日、友だちに誘われ、とある大会に出場することになった。そこで原口は、ビーチサッカーと運命的な出会いを果たす。

「ビーチサッカーって難しいスポーツなんですが、初めてプレーをした割に、結構上手くできるなと思ったんです。今思えば良い勘違いでしたね(笑)。でも、楽しめたし、体感として自分に合っている、とビビッときました」

この大会での経験を機に原口は、ビーチサッカーに魅了された。

「もう一度プロを目指して、本気で日本代表になりたい」

家族や友人の反対の声を押し切り、入社8ヶ月で会社を辞め、ビーチサッカーの世界への門戸を叩いたのである。

つらい練習を乗り越え日本代表に選出

2010年、原口は東京レキオスに練習生として入団。

東京レキオスは、ラモス瑠偉監督の指揮下並居る強豪国を破りベスト8に輝いたビーチサッカーワールドカップ日本代表チームにも多くの選手が選抜されている日本一のチーム。「日本で一番強いチームに入って強い選手とプレーしたい」という中学生からの夢は、ビーチサッカーとの出会いによりついに実現したのである。

「はじめは実家からも通えるし、生活スタイルも沖縄のチームに比べて自分に合っているな、と思い入団したのですが、周りは全員日本代表クラス。試合では一度も負けたことがないようなメンバ-に付いて行くために、毎日必死に練習しました」

収入がないことも悩みの一つだった。スポーツクラブでアルバイトをしながら、チームメイトが運営しているサッカースクールのコーチの準契約社員として小学生にサッカーを教えた。

「プロになるためには心・技・体全て鍛えなければいけないのに、お金がなかったから体のケアもできない、食べ物や飲み物も十分に買えず、本当に生活がギリギリでした。周りはみんな日本代表のメンバーで、全員がライバル。私は一番下っ端なので、毎日の練習でも削られる日々が続いて、おかげでメンタル面でも肉体面でも大分鍛え上げられました」

つらい練習の日々を持ち前のハングリー精神で乗り越え、2012年、日本代表候補になる。そして2014年、ついに日本代表に選出され、その後、2015年のポルトガル大会、2017年のバハマ大会に続き、2021年ロシア大会と3度のワールドカップに出場したのである。

日本ビーチサッカー史上初のW杯準優勝

2021年8月。原口が選出されたビーチサッカー日本代表は、ロシア・モスクワで開催されたFIFAビーチサッカーワールドカップロシア2021で準優勝という快挙を成し遂げた。

ビーチサッカー日本代表は、グループステージを2勝1敗で通過。決勝ラウンドの準々決勝では、延長戦の末にタヒチに勝利し、準決勝ではセネガルに快勝した。決勝では開催国のロシアに惜しくも敗れたが、前回大会の4位を上回る、過去最高の2位という好成績だった。

日本ビーチサッカー史上初となる準優勝という快挙を成し遂げたことが評価され、原口は、同年、日本サッカー協会100周年表彰にて「特別功労表彰」を受彰したのである。

ビーチサッカーへ恩返しを

ビーチサッカー日本代表として活躍するかたわら、2017年、東京ヴェルディBS(ビーチサッカー)の立ち上げメンバーとして移籍。結婚を機に翌年の2020年、IT企業の株式会社ProVisionに同企業2人目のアスリート社員として入社した。

現在も、午前中は鎌倉から立川にある東京ヴェルディの練習場に行き汗を流し、午後はみなとみらいのランドマークタワー40階で22時くらいまで働く。そんな日々が続いている。

「2回目のワールドカップに出たくらいから、周りの方が理解してくれるようになりました。おかげさまで個人スポンサーも25社くらいついてくださっています。アスリートと会社員の二足わらじは大変ですが、ビーチサッカーへ恩返しをしたい、そういうモチベーション、マインドが今の生活への原動力になっています。ワールドカップで銀メダルという結果を出したことで、責任も生まれたと思っています。メダリストとして、ビーチサッカーをもっと普及させ、メジャーにしていきたい。私がここまで成長できたのはビーチサッカーのおかげなのです」

原口のプレースタイルは大学時代から変わっていない。いかに選手が気持ちよくプレーできるか、ストライカーが得点できるかを第一に考え、誰よりも泥臭く、砂だらけになってチームに貢献する。自分を成長させてくれたビーチサッカーに、身体を張って恩返しをする、そういう時期に来ていると原口は言う。

海の環境教育や環境保全の大切さ

「ビーチで行うサッカー」と一口に言ってしまうとなかなか伝わらないのがビーチサッカーの魅力である。実際、サッカーとはかなり動きが異なる。

一番の魅力はそのアクロバティックなプレーである。砂浜でボールを運ぶためにはもっぱら空中戦が繰り広げられる。サッカーでは禁止されている高い位置でのプレーも認められるため、オーバーヘッドなど思わず歓声が上がるプレーの連続。まさに一秒一秒が見逃せない。そのビーチサッカーの魅力に欠かせないのがきれいなビーチであると原口は考えている。

「ビーチサッカーは文字通りビーチのスポーツなので、今まで多くの国のビーチに遠征に行きました。ポルトガル、ブラジル、アルゼンチン、ヨーロッパ、いろんなところに行っていますが、どこもきれいでごみがないんです。子ども向けにビーチサッカーにまつわるいろんなイベントを開催していますが、今後は、海の環境教育や環境保全に関わるような活動をもっとやっていきたいですね」

ブルーフラッグの活動を応援していきたい

原口が立川や横浜から帰宅した瞬間に心のスイッチを入れ替えてくれるという鎌倉の海も、2016年に由比ガ浜海水浴場でビーチの国際環境認証「ブルーフラッグ」を取得した。

ブルーフラッグとは、デンマークに本部がある国際NGO FEE(国際環境教育基金)によるビーチ等を対象とした世界で最も歴史ある国際認証制度である。「水質」「環境教育と情報」「環境マネジメント」「安全性・サービス」の4分野、33項目の認証基準があり、毎年審査を受けて更新する必要がある。基準を満たしたビーチはその証として、青いフラッグを掲げることができるのだ。

「海は目に見えない力を感じるんですよね。人生100年時代、一人ひとりの人生にビーチスポーツがもっと関わっていくことができたら、もっとみんなの心も体も健康になると思うんです。ビーチスポーツを通じて、それを多くの人に感じてもらいたい。裸足でさらさらの砂浜をもっと楽しんでもらいたい。そのためにブルーフラッグの活動も応援していきたい。そしていつか、『いつでも誰でも楽しめるビーチスポーツの施設を作る』のが私の夢です」

コロナ禍により3年ぶりに海水浴場が開設される鎌倉。今年は、ビーチスポーツや環境教育も体験できる新感覚の海の家も楽しめそうだ。原口のプレーに魅了された観光客から湧き上がる歓声が、今から聞こえてくる。