藤沢市サーフィン協会 会長 佐賀和樹氏

湘南の海を守り抜く

藤沢市サーフィン協会 会長 佐賀和樹氏

インタビュー・文 / 片山清宏・片山久美

藤沢市サーフィン協会 会長 佐賀和樹氏

青い空、青い海。待ちわびた夏が、湘南に到来した。太陽の光を浴びながらビーチクリーンを楽しむ朝。マスクをしていてもなお爽やかさを感じさせる端正な顔立ちは、彼の数多くある魅力のうちのほんの一つに過ぎない。

佐賀和樹。26歳で最年少議員としてデビューして以来、若手政治家のトップランナーとして藤沢市を牽引してきた。藤沢市議会議員20年というキャリアを積み、藤沢市サーフィン協会会長としても活躍する今、何を思うのか。彼の人生を追いかけた。

「佐賀家」に生まれて

佐賀は、1972年、鵠沼に生まれた。祖父は日本漕艇協会副会長、日本オリンピック委員会(JOC)委員、日本体育協会理事を歴任し、1964年東京オリンピックボート競技の総監督を務めた昭和期を代表するボート競技指導者・佐賀直光氏。父は日本サーフィン界の草分けであり、高名な建築家でもあった佐賀和光氏。

日本のボート界・サーフィン界、そして湘南の建築界の発展を牽引してきた名家に生まれた佐賀。生粋の湘南っ子であるが、佐賀家のルーツは、意外にも東京にあった。

「もともと佐賀家は品川区の大崎が本籍なんですよ。祖父は自動車部品製造会社を経営していたんですが、戦争の空襲で家が燃えてしまい山梨に疎開。その後、父が7歳くらいの時に鵠沼に移住してきたそうです」

当時の鵠沼松が岡は、まだ未開発で一帯が沼地。家は3軒しかなかった。そのうちの1軒、「鵠沼海岸別荘地開發記念碑」にその名前が刻まれる三井物産常務の小田柿捨次郎氏が開発した3000坪という広大な敷地に、佐賀家が越してきたのだという。

「今では佐賀家は鵠沼ローカルと言われていますが、父の言葉を借りれば、『ローカルだって元を正せばみんな移住者。たまたま俺たちが早かっただけ』なんです」。

日本サーフィン発祥の地・鵠沼

当時、実業家だった祖父・直光氏を慕い、多くの政治家や実業家、米軍将校などが佐賀家を訪れた。そのため、佐賀の父・和光氏の周りには、日本ではなかなか手の届かない世界最先端の流行や文化を身近に感じることができる環境がすぐ近くにあった。そんな環境が「日本サーフィン発祥の地・鵠沼」を誕生させることに大きく影響したのだという。

「休日になると厚木基地から米軍兵たちが鵠沼海岸にジープで乗り付けて、バーベキューやサーフィンを楽しんでいたそうです。父ら佐賀4兄弟みんなで米軍兵からサーフィンの手ほどきを受けたのが日本のサーフィンの始まりと言われています。1961年、父が21歳の頃ですね。サーフィンをしていると見物する車で渋滞が起きて、パトカーが来るほどだったそうですよ」

海外文化に高いアンテナを張っていた佐賀兄弟が鵠沼にいたからこそ、現在の湘南ブランドのひとつ「日本サーフィン発祥の地・鵠沼」は誕生し、日本にサーフィン文化が花開いたのである。

佐賀兄弟がサーフィンを始めると瞬く間に流行が広がり、東京オリンピックの翌年の1965年、日本サーフィン連盟(NSA)を発足。現在、日本サーフィン連盟は、全国に70支部を有する国内唯一の国際サーフィン連盟(ISA)所属団体となり、全日本サーフィン選手権大会をはじめ国内4大会を主催、各種サーフィン競技大会の公認、世界大会への選手団の派遣等を実施している。サーフィンは、東京オリンピックの正式種目に決定し、千葉県一宮町の釣ケ崎海岸での開催が予定されている。

父とのファーストサーフィン

「光と風」をテーマにした斬新なデザインを手がける建築家として、ジャズ・ピアニストとして、そして日本サーフィンの草分け&レジェンド佐賀兄弟の一人として、誰よりもカッコよく、圧倒的な存在感を示していた父・和光氏。そんな父との子供時代の思い出は、やはりサーフィンを通じたものだった。

「私は父とキャッチボールしたことないんですよ(笑)。物心ついた頃にはボディボードやったりして海で遊んでもらっていました。小学校1年生の時、ロングボードに乗せられたんですね。ボードが滑り出すと、後方から『立て!立て!』と父の声が聞こえ、夢中で乗ったのが私のファーストサーフィン。当時の夏休みの宿題の絵日記に、花火大会や縁日の思い出と一緒に、父とサーフィンをしている絵を描いたのを鮮明に覚えています」

初めてのマイボードは湘洋中学の入学祝いで手に入れた。なんと日本を代表するクラシカルブランドYUの創設者でヘッドシェイパーを務めるレジェンド・植田義則氏からのプレゼントである。

「初めてのマイボード、嬉しかったですね!グリーンのゼブラっぽいボードでジェリーロペス(上写真)のデザイン。当時ウェットスーツを持っていなかったんですけど、4月のまだ肌寒いなか、海パンで海に入ったのを覚えています」

「やりたいこと」が見つからない日々

中学校2年の時にプロサーファーを目指していた友人とクラスメートになると、多くの同級生が部活動に励んでいる中、サーフィンとスケートボードに明け暮れる毎日。高校に進学し当時の流行もありバイクを乗り回す同級生も多かったが、佐賀はサーフィン一筋。サーフィンばかりしている佐賀を心配した母からは、苦言を呈されたこともある。

「父は『いつか自分自身でやりたいことを見つける時が来るだろ』と、ずっと信じてくれていたみたいで小言は言わない人でしたが、母はやっぱり普通の母親が思うように息子の将来が心配みたいで、しつけも厳しかったし、勉強しなさいと良く言われました。高校を卒業して4月になっても進路も決めずにサーフィンばかりやっていたんで、母に怒られ大喧嘩、10日ほど家出をしたこともありました。近所の幼馴染のところに行くだけの“プチ家出”でしたが(笑)」

「ゴールデンウィークが明けた頃、父から『お前は何がしたいんだ』と聞かれたんです。とっさに、『アメリカに留学したい』と言ったら、父は私の浅はかさを見透かしていたんだと思いますが、『それなら自分で金を貯めろ』と」

そして、やりたいことも見つからないまま過ごしていたところ、父・和光氏の友人、インターパーツデザイナーの野口薫氏からアシスタントをやらないかと誘われた。

インターパーツデザイナーとは、観葉植物やインテリアを飾ることで、暮らしをより豊かにするという仕事。当時、野口氏は日本の造園に「ランドスケープ」という言葉を輸入し、「イッセイミヤケ」をはじめとするハイブランドのショーやファッション雑誌の撮影時に背景として使われる植物などを数多く手がけていた。

「昔からお世話になっている野口さんの元で働かせてもらえて有り難かったですね。戸塚の職場に電車とバスを乗り継いで通って、東京で大物芸能人との仕事に立ち会わせてもらえたりして、充実した仕事でした」

その後も働くことの楽しさ、辛さを経験しながら社会人として歩み始めた佐賀。しかし、自分が人生を通してやりたい仕事には出会うことができず、モヤモヤとした日々を過ごしていた。そんなとき、佐賀のその後の人生を大きく変える転機が訪れる。「湘南なぎさシティ計画」反対運動への参加。佐賀が23歳のときである。

「湘南なぎさシティ計画」反対運動

「湘南なぎさシティ計画」とは、江の島近くの自然の海岸を埋め立て、公園や文化ホール、飲食店街、観光船施設などの総合リゾート施設を建設するというプロジェクト。1990年代半ば、神奈川県と藤沢市、民間企業グループにより計画されていた。しかし、自然保護の観点から地元住民の反対が根強くあった。

「あるとき、父から『湘南なぎさシティ計画』の話を聞かされたんです。計画が実行に移されれば、普段サーフィンしていた江の島西側の『大六ポイント』が消失してしまう。なんだ!それはと、素直な疑問と許せない感情が湧き上り、サーファーとして純粋に反対しなければという気持ちが強くなっていきました」

「湘南なぎさシティ計画」に対して、作家の佐江衆一氏らのグループや一部の市議も反対運動をしていることが判った。佐賀は、志を同じくするプロサーファー塩坂信康氏と、サーファーとしての声を届けようと行動を共にすることを約束。1995年7月、「SOS」(SAVE OUR SHORE)という組織を作り反対署名を始めた。

「塩坂さんは有名なプロサーファーだったので、サーフ雑誌やメディアを通してどんどん活動をアピールしてくれました。でも、自分はサーファーとしては無名の若造。学生時代、国語は特に嫌いな科目だったのに、そんな自分が裏方として議会への陳情書や署名活動のために必要な書類を必死に作文したんです。思いがこもった文章は人に訴える力がある。この時の経験は今でも役に立っています」

時間が許す限り仲間たちとビーチを歩き、海水浴客やサーファーにお願いして署名を集めていった。地道な活動が少しずつ浸透し活動の輪は確実に広まっていった。12,538名の反対署名を添えて、藤沢市議会に陳情書を提出した。

「鵠沼海岸から藤沢駅までデモ行進もやりました。130人も集まり、参加した人達から『すごく疲れたけど気持ちよかったよ』と言ってもらえ、最高の気分でしたね。当時、『茶髪の若造には政治的な運動は無理じゃないの』と言われていたけど、運動が盛り上がっていくにつれ、ニュースステーションなど多くのメディアでも話題になり、周りの目も変わっていきました」

そして、神奈川県と藤沢市は「県の事業である公園部分に施設を作るための埋め立ては行わない」として計画を大幅修正する方針を決めた。

市民運動で実感した可能性と限界

佐賀は、SOSの「湘南なぎさシティ計画」反対運動の経験を経て実感したことがあった。

「実際に自分たちで署名活動をやって陳情も議会に提出した。一部の市議に協力してもらい、議会で自分たちの思いも代弁してもらいました。でも、結局自分以外の人の言葉を介して伝えると、本当の思いは伝わらない。自分がその場に立ち、自分の言葉で発言しなければならないということを強く感じたんです。それが私の政治の原点です」

市民運動を通して「海を守りたい」という思いを実現してきた佐賀。一方で、市民運動の限界も見えてきた。「自ら政治の立場に立ちたい」。そんな思いに駆られた。

佐賀は政治家になる決意を固め、衆議院議員秘書を経て、1999年に当時最年少26歳で藤沢市議会議員選挙に立候補し初当選した。これまで、環境政策、教育委員会改革、境川不法係留船の撤去、鵠沼海岸公園スケートボードパークの設置等を実現。また、クレジットカードを利用した納税方法を日本で初めて実現し、議員政策コンテスト『マニフェスト大賞』で「最優秀政策提言賞」を受賞。議会の要でもある議会運営委員会委員長、そして、2013年には第47代副議長に就任し、議会運営の中心的役割を担うようになった。

「初当選当初は、自分みたいな若造が議会に切り込んでいって古い慣習をぶっ壊してくれるんじゃないかと期待している人がいたかもしれない。でも、政策を実現するには時間がかかることは市民運動を通して分かっていました。多くの利害を調整する必要があって、そのためには様々な人間関係が重要になるからです。だから焦らずに地道に取り組んでいきました」 

佐賀は、現在48歳にして6期目の大ベテランとなった。

「おかげさまで20年議員をさせてもらって、今では多くの人脈ができ、いろんな方から信頼していただけるようになった。やりがいとともにその責任の重さを感じています。ある時、叔母から『誰とでも気負いなく話ができるあなたは、おじいちゃんの血を誰よりも受け継いでいるんだね』と言われたんです。実業家だった祖父の周りには政財界の有力者が多く集まっていて、そこには政治が常に渦巻いていました。今までそんなことを考えたことはなかったけど、祖父の存在を感じました」

青年会議所の活動で得た地域の仲間

「議会」と「海」ばかりの生活だった佐賀だが、しばらく海から離れる時期もあった。

「ちょうど市議3期目に当選した頃から7年間くらいですかね。たぶんほとんどサーフィンをしなかったかなあ。海に入っても一年に1、2回、全く入らなかった年もあったくらいです」

佐賀は34歳の時、藤沢青年会議所(JC)へ入会し、その後JC活動に没頭していくことになる。

「議員になってから入会の勧誘をずっと受けていましたが、JCは飲み会メインの団体というイメージがあって断り続けていたんです。そんな時、JCに入会していた高校の同級生から『実際に中を見てもいない人間が勝手なことを言うな!』と言われて。それならば、実際に入って見てやろうと思い、入会することに決めたんです」

実際に入ってみると、40歳までの同世代の多くの仲間たちが地域のために真剣に活動していた。

「こんなに地元で頑張っている同世代がたくさんいたんだ、と衝撃を受けました。自分の小さかった世界が大きく広がるのが分かりました。仕事が終わってからみんなで集まって、遅くまで会議をして、そこからご飯を食べて飲みに行って、だから、海に行く時間はどんどん減っていきました」

JCの理念は「明るい豊かな社会の実現」。中でも藤沢青年会議所は、今では関東三大イルミネーション、冬の風物詩となっている江の島の『湘南の宝石』を始め、小中学生サッカー大会など地元を盛り上げる様々な事業を精力的に作ってきた組織。佐賀は大好きなサーフィンを封印し、JCの活動によって藤沢市内だけでなく神奈川県内、全国に仲間を増やしていった。

「地方が選挙区の国会議員が東京に行ったきり地元に帰ってこないって言われたりするじゃないですか。私は藤沢に行ったきり、地元の鵠沼に帰ってこない、なんて言われて。藤沢駅からたった2駅なのにね。『選挙の前になると鵠沼に帰ってくる』って言われたり(笑)。でもその7年間でできた人脈が間違いなく今、貴重な財産となっています。江の島海水浴場協同組合の森井理事長もその一人ですね」

入会前はJCを否定していた佐賀は、JC卒業となる最終年度は理事長にまでなった。

新型コロナの影響で異例の夏に

2020年4月の週末、新型コロナウイルス感染が拡大する中、湘南海岸などにはレジャー目的の家族連れやサーファーが続々と来訪。海岸に面した国道134号は県内外のナンバーの車で大渋滞となり、地元住民から自粛の緩みを懸念する声が相次いだ。佐賀は、すぐさま神奈川県や藤沢市にかけあい、近隣の県立駐車場の閉鎖に動いた。

「新型コロナの影響で、自分のフィールドである海がここまで注目されることになるとは正直思っていませんでした。なんとかしなくてはいけない。幼い頃からこの海とともに生活し、海の課題に取り組んできた私に課せられた使命だと強く感じました」

2020年6月、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、神奈川県内の全ての海水浴場は開設中止を決定した。「海水浴場閉鎖」という異例の事態。毎年、規定している「藤沢市海水浴場ルール」が適用されないことから、水難事故の多発や海岸の無秩序化などが懸念された。そこで、藤沢市、海水浴場組合、神奈川ライフセービング協会が集まり、そして佐賀は藤沢市サーフィン協会会長として参画、協議を重ね、藤沢市夏期対策協議会が今夏の特例措置として「夏期海岸藤沢モデル2020」を定めた。

「年間150万人の海水浴客が訪れる藤沢市として、先手を打つ形で独自で策定しました。ライフセーバーを配置、海水浴場組合もパトロールを行い、海岸での営利活動やバーベキューなどの火気使用を禁止、飲酒やタトゥーも制限。そしてサーフィンなどのマリンスポーツの自粛エリアと可能エリアを設定、これらの対策がスムーズに実行できたのは、JC時代の森井理事長とのつながりが大きかったですね

ブルーフラッグビーチをめざして

江の島海水浴場協同組合は、片瀬西浜・鵠沼海水浴場で2021年夏の「ブルーフラッグ」認証取得を目指している。

ブルーフラッグとは、デンマークに本部がある国際NGO FEE(国際環境教育基金)による世界で最も歴史ある国際認証制度。①水質、②環境教育と情報、③環境マネジメント、④安全性・サービスの4分野、33項目の認証基準があり、毎年審査を受けて更新する必要がある。基準を満たしたビーチ・マリーナ等はフラッグを掲げることができる。ブルーフラッグの取得認証を受けるためには、行政、企業、環境/観光団体、漁業関係者、マリンスポーツ関係者、ライフセーバー、市民など、多くの団体や地域の協力が必要となる。

「西浜がブルーフラッグを目指すことになりました。西浜は私のホームポイントなので誰よりも思い入れがあります。市議会議員として、そして1人のサーファーとして勿論、協力していきます。今年は新型コロナの影響で西浜の海水浴場は閉鎖されてしまいましたが、来夏はきれいで安心・安全で誰もが楽しめるブルーフラッグビーチを実現したいですね」

継続こそ力

佐賀は毎日、SNSを使って新型コロナウイルス感染症に関する情報をまとめて発信している。藤沢市民だけでなく、市外や多くの関係者から、佐賀の情報を得ることで安心・安全な暮らしを手に入れることができると評判だ。

「毎朝7時半に更新しているんですが、毎朝、市のホームページや新聞など、様々な情報を入手して自分なりに整理しています。私の更新を待ってくれている人も多くて、地味ではあるけど使命感を感じてやっています」

48歳となり政治家として円熟期を迎え、若さだけでなく人間的な厚みも感じるようになって来た佐賀。今も、豊富な経験と持ち前のバイタリティで「コロナ禍」という未曾有の危機に立ち向かっている。「湘南の海を守り抜く」という信念が佐賀の全ての行動の源泉だ。藤沢市の未来を牽引する存在として、今後の活躍から目が離せない。(了)