特定非営利活動法人神奈川県ライフセービング協会 理事長 土志田仁氏

命をかけて「命をつなぐ」

特定非営利活動法人神奈川県ライフセービング協会 理事長 土志田仁氏

インタビュー/加藤美幸・日置直子・中許竜宏 文 / 加藤美幸

特定非営利活動法人神奈川県ライフセービング協会 理事長 土志田仁氏

 相模湾を臨む雄大な海岸線に、人気スポットが多数立ち並ぶ湘南エリア。マリンスポーツのメッカとしても親しまれ、年間を通して数千万の人々がこの地を訪れる。しかし、その数に比例して水難事故も多い。特に人気スポット、片瀬西浜・鵠沼海水浴場では、命に関わる多くの事故が起きる。この水辺の事故を未然に防ぐだけではなく、事故後の一次救命のため、命を懸けて、命を繋ごうとする人たちがいる。「ライフセーバー」だ。

 神奈川県ライフセービング協会 理事長 土志田仁。

「海の男」。まさにその言葉がぴったり合う。鍛え上げられた肉体。オーラをまとい、一瞬にして人を惹き付ける笑顔。その瞳は鋭く、多くの命と関わってきた厳しい道のりを物語っている。「海水浴場の監視員」から、国内最大クラブ会員数の組織にまで育てた彼の素顔に迫った。

学校近くの文房具屋さん育ち

土志田は1962年、横浜生まれ。両親は文具・事務用品・書籍の店舗販売店を営み、4人兄弟の3番目に生まれた。幼少期は掃除などをして、共稼ぎの両親をよく手伝った。

「超倹約家の両親で、自転車が欲しくても買ってもらえず、友達と遊ぶときは走っていました。小学生の頃、なぜか紛れてボールを持って帰ってきてしまい、親からどうしたんだと聞かれ、貰ったと変な答えをしたら頬とお尻をしこたま殴られ「嘘をつくな」とこっぴどく怒られました。母が繕ってくれた擦り切れたジーパンを大事にはいて「雑巾ズボン」と揶揄された記憶があります」

 当時は、今でいう公民館のような場所で、近所の大学生のお兄さんに器械体操を教えてもらい、小学生ながらにバク転・バク宙を得意とするほど、抜群に運動神経が良かった。器械体操の体操選手になりたかったという。その思いのまま、中学では体操部へ入部した。地区大会で優勝もしたが、部員は女子ばかりであったため、一年後に赴任してきた先生との出会いによって、陸上部を創部した。

「いきなりキャプテンになって、部員も多く毎日部活に明け暮れていました。勉強とスポーツのバランスが上手ではなかったです」

 明るくて運動神経抜群、となれば当然人気者だろう。小学・中学校を通して毎年学級委員長だったという。コミュニケーション能力が高く、当時からリーダーシップを発揮していた。高校に進学後も陸上部に所属し、短距離とハイジャンプを専門に活動。そして一年生の時にサーフィンと出会う。日雇いアルバイトで貯めた資金でボードを購入し、部活動とサーフィンに明け暮れた毎日を過ごしていた。

「中学・高校と女子にチヤホヤされて、有頂天になっていましたね」

大事故が心身に大きな傷を

高校三年生の時、持ち前の運動神経を活かし教習所も行かずに中型バイクの免許を取得。しかし、大会前の大事なレスト日、先輩から借りたバイクで事故を起こした。

「後ろに友人を乗せていて2人とも重傷、1~2か月の入院でした。学校でも大問題、死にかけた私は心身共に大きな傷を負うことになりました」

部活で短距離とハイジャンプ、そして棒高跳びでもいい成果を出し、全国レベルの選手に育てる為、学校が棒高跳び用の機材一式を彼のために整えてくれていた。その学校や先生を裏切ることになってしまった。

「友人に怪我をさせてしまった事も深く後悔していました。高三からの受験もドロップアウトして浪人、サーフィンなど遊びながらの1年間、辛うじて大学に入りました。この時期のどうしようもない生き方が今後の人生に大きな影響と変化をさせたかもしれません」

これが海・これがライフセーバーの仕事

大学に入ったものの、部活には入らず流行りのスポーツサークルやサーフィン、バイトに明け暮れる日々だった。そんなある日、高校陸上部の先輩からライフセービングに誘われた。

「『海が好きで、サーフィンができる。さらにお酒が飲めて、女子にモテるかも・・』ありえない勧誘でしたが完全にツボにはまりました。日本赤十字で資格を取得し、よくわからないままに西浜ライフセービングクラブに入りましたが、現実は厳しく、一年目は「新兵」と呼ばれ超過激な縦社会でした」

 そして入部したての夏、水難事故に遭遇する。

「小さな5歳くらいの男の子だったと思います。マウスツーマウスや心臓マッサージ、習ったばかりの技術を駆使しましたが、自分の腕の中で亡くなってしまいました」

泣きくずれるご家族、助けられなかったという自責の念。もう続けられないと考えるようになっていたところ、ある先輩に「これが海。これがライフセーバーの仕事。海の仕事なのだ」という言葉をかけられた。

「一気に目が覚めました。高校時代や、浪人、ぐーたらな生活、友人に怪我をさせてしまった負い目、全てが頭の中を駆け巡り、今まで鍛えてきた身体と一度失いかけた自分の命を、全て人命救助に捧げることを自分に誓いました」

 それからの大学4年間は、死にもの狂いでライフセービング活動を行った。先輩・同期・後輩にも恵まれた。当時は、今とは比較にならないほどの海水浴客が押し寄せ、多くの水難事故が起きた。

「絶対に命を救う、助けると誓っても次から次へと事故が起きる。そして人が亡くなっていく。色々な場面を経験しました。どれだけ涙を流したことか。社会人になっても続けていかなくてはと自分に誓いました」

家業を継ぐ

大学卒業が近づくある日、自身の体調に不安を持つようになった父と、それを心配する母から、後を継いでみないかと言われた。

「やりたい放題の自分を見つめなおし、後継者としての決意を決めました。と言っても当時は5~6人の商店でした」

 商売を大きくするには外商の強化が必須と考え、大手の民間企業や官公庁へひたすら飛び込み営業をかけたという。その後社員も増え、更に同業を買収して拡大させて、現在では業態も変えてオフィス家具販売を中心に内装を手掛ける、3社の法人格を運営している。

「現在の会社があるのはその頃のお客様のお陰です」

更に拡大させようと大きな仕事にチャレンジしたが、失敗も経験した。「商売は売ってなんぼではなく、回収して完了する、ということを学びました」

西浜から全国へ。そして、緑綬褒章受章(社会奉仕活動功績)

1963年 片瀬西浜・鵠沼海水浴場は水の事故が多かったため、教員などが発起人となり 国内で初めての監視体制をとった。ライフセービングの第一歩となる。
1982年に加入した当時を振り返る。
「夏だけ集まる監視員の集合体で、先輩には絶対服従という封建的な体質でした」

 大学を卒業し就職後も毎年夏の現場に立ち、1985年に21代目警備長となったが、次第にこの「監視員の集まり」をクラブ運営化できないだろうかという流れになり、有志たちが立ち上がった。当時はレスキュー技術が乏しかったが、ライフセービング発祥の地と言われるオーストラリアと技術交流を図り、機材のメンテナンスや技術について交換留学をしながら向上させた。日本一人出が多い海水浴場と言われる湘南・西浜において、名実ともに日本で一番のライフセービングクラブ・世の中から必要とされる団体にする、というビジョンを掲げ活動してきた結果、1995年、西浜ライフセービングクラブ(SLSC)が誕生し、設立副理事長に就任した。その後、夏の監視・救助活動だけではなく、社会貢献活動や水に関わるイベントの警護など、年間を通した活動需要が増えていき、2003年には「特定非営利活動法人西浜サーフライフセービングクラブ(SLSC)」となり、初代理事長に就任。

 現在は300名近くのクラブメンバーが所属し、諸外国との交流を積極的に図るなど、日本のライフセーバーを牽引する、まさに日本一のクラブとなった。

「費やした時間と汗、時には涙、酌み交わしたお酒や語らいは、メンバーの大きな宝となっているに違いありません」

 1995年の西浜SLSC設立の際、夏の集合体だけではなく、それ以外の時期も皆が集まるようにと、毎月第2日曜日のビーチ―クリーンを開始した。数人から数十人、地元町内会や通りすがりの人、多いときは数百人規模にまでなったという。

「終わった後は皆でコーヒーブレイク、その後練習したりサーフィンしたり、デートしたりと、皆が集うきっかけとなりました」

 そして、開始から17年の歳月を重ねた2012年、緑綬褒章受章(社会奉仕活動功績)の内諾通知が届く。

「代表者である私の身辺調査や、駐車違反一つでも起こしたら取り消されると言われ、過去にない程、仕事中の運転や日々の行いに気を遣いました」

授与式当日、メンバーひとり一人の顔や様々な思いが巡り、重責を感じながら臨んだ。

「国土交通大臣から賞状を受け取った後、皇居では天皇陛下に拝謁賜り、直接お言葉を頂きました。迎えに来てくれた仲間と共にモーニング姿で祝杯をあげました」

日本で初めてライフセーバーの団体が受賞したのだ。

「後世のメンバーにも語り継ぎ、地味であってもビーチクリーン活動に誇りと自信、そして意義を持ち続けてほしい」

謙虚であれ、人に限りなく優しく強くあれ

国内では1991年に、日本ライフガード協会(藤沢市)と日本サーフライフセービング協会(下田市)が統一され、NPO法人日本ライフセービング協会(JLSA)が設立。1993年に国際ライフセービング連盟に承認され国際的な組織になった。1997年に日本最初の複数クラブ参加型都道府県支部として、神奈川県ライフセービング(LS)連盟(現神奈川県LS協会)が設立され、現在、19の都道府県協会・134のクラブが加盟している。その中でも、西浜SLSCは競技・組織力においてトップチームだ。だからこそ後進のメンバーに言い続けてきた。

「謙虚であれ、人に限りなく優しく強くあれ」と。

「全国のチームが切磋琢磨し、抜きつ抜かれつの競争の中で生み出されたパワーは、必ず水難事故防止に繋がります。それを繰り返すことで、日本のライフセービング活動、救助活動がレベルアップしていくと確信しています」

 ライフセービングの第一の任務は、事故防止であり、有事の際の救助活動および応急措置だ。事故現場における一次救命処置が生死の境目となる。体力と泳力、救命知識や技術を持つライフセーバーが、AEDや心肺蘇生法などを行えば、救命率・蘇生率が上げられる。

「一次救命は人の手でしか行えません。命をつなぐことができる仕事に誇りを持っています。本来は、ライフセーバーが活躍しないのがいちばん望ましいのです」

ライフセーバーが活躍しない世の中を目指すこと、セルフレスキューを普及させることに目標を置き、現在は、心肺蘇生法や応急措置法の講習会、自らの命を守る知識を身につけるためのセミナーや、海の安全指導教室開催などの教育活動、ビーチクリーンなどの環境保護活動を行っている。
 近年では、ジュニアライフセービング教室や、大学の部活やサークルでライフセービングを学ぶ子供や学生たちが増えている。

「子どもたちの安全のために、大学生は社会人になってからも、ライフセービングで学んだことがきっと活かされるでしょう」

 今年はコロナ禍の影響で過去に例のない、海水浴場の開設ができない夏を迎えた。監視体制の取れない状況での安全確保について不安視される中、行政・ライフセーバー・市民サーファー達が一丸となったことで、神奈川県の死亡事故を例年よりかなり抑えることができた。

 さらに、ブルーフラッグについてもかなりの関心を寄せている。江の島海水浴場協同組合が、片瀬西浜・鵠沼海水浴場で2021年夏の「ブルーフラッグ」認証取得を目指している。そのためには、行政、企業、環境/観光団体、漁業関係者、マリンスポーツ関係者、ライフセーバー、市民など、多くの団体や地域の協力が必要となる。

「地元市民へ取り組みの経緯や結果をしっかり告知して、皆で環境保全に取り組むんだというメッセージを出して頂きたい。夏の限定的な業者さんやマリンスポーツ団体、そして我々が共に同じ方を向くチャンスとなればいいですね」

海ならではの空気感と匂い

土志田は、2013年に西浜SLSC理事長を退き、2015年、神奈川県LS協会の理事長に就くが、あくまでも現場主義を貫く。

「ゴールや完璧な答えはなかなか見つかりません。日本国内でのライフセーバーの更なる地位向上のために、実績を積み重ねていかなければなりませんね。そういうことも後進へ託していきたいと思っています」

 ライフセービングを始めてから40年が過ぎようとしている。子育ては卒業した。そろそろ次のステージを考えたら?と妻に言われるが、家でジッとしているのはかなり苦手。それも妻は分かっている。ライフセービングは彼のライフワークなのだ。生涯現役。
 日本各地、そして世界も回った。それでも、この湘南が好きだと言う。

「この場に来ないとわからない、この空気感・匂い・温度」

と言って波を見つめる海の男から、今後も多くの命とかかわっていく覚悟を感じた。(了)