株式会社新江ノ島水族館 代表取締役社長 堀一久氏

「つながる命」の大切さを伝えたい

株式会社新江ノ島水族館 代表取締役社長 堀一久氏

インタビュー・文 / 片山清宏・片山久美・日置直子

株式会社新江ノ島水族館 代表取締役社長 堀一久氏

“えのすい”の愛称で多くの人に親しまれている新江ノ島水族館。その中でも人気スポットの一つが「相模湾大水槽」だ。まるで相模湾の生き物たちの一員になったような感覚を味わえる水槽の前に、ある人物がいた。堀一久。来場者数が30万人にまで落ち込んだ旧江の島水族館を“えのすい”としてリニューアル、来場者数180万人にまでV字回復させ、首都圏屈指の人気スポットに育て上げた株式会社新江ノ島水族館代表取締役社長である。

堀には、一流の経営者が持つ上品な佇まいと落ち着いた風格が漂う。インタビュー時に時折見せる少年のような弾けた笑顔も魅力的だ。堀の半生を追った。

祖父は黄金期の日活社長

堀は1966年東京に生まれた。祖父は映画会社「日活」の社長・堀久作である。日活といえば、石原裕次郎らを起用した青春映画で大成功し、東宝、東映、松竹と並び映画黄金時代を築き上げた日本を代表する映画会社である。長男だった堀は祖父・久作の名前から「久」の字をもらい、堀家の“お坊ちゃん”として大切に育てられた。

その久作がたまたま湘南海岸をドライブしていて、目の前に広がる相模湾の海と、富士山、江の島の素晴らしい絶景に感激し、昭和29年に創設したのが旧江の島水族館である。

「ちょうど映画産業以外の娯楽事業を探していたときで、『海と言えば水族館だ!』と。フィクションである映画の世界に対して、リアルな世界を誠実に伝える水族館に祖父は魅力を感じたようです。当時はまだ水族館は世間に認知されていなかったので、個人出資で旧江の島水族館を創設したんですよ」

教育熱心だった母との思い出

両親は、将来家業を継ぐことになるであろう長男の堀に、暖かくも厳しい指導をしていた。特に専業主婦だった母・由紀子は、堀の教育に対して人一倍熱心だった。

「母は勉強にはとても厳しかったですね。母の言われるままに勉強をして、気づいたら慶應に入学していたという感じでした(笑)。その後の充実した学生生活を考えると、あの時しっかり導いてくれた母には本当に感謝しています」

日本屈指のエリート私立小学校・慶應義塾幼稚舎に入学し、堀一族の御曹司として将来を嘱望され、彼の人生は順調満帆のように見えた。しかし、小学校4年、10歳のとき辛い別れを経験する。父・雅彦が57歳の若さで他界したのだ。

「あまりに突然のことで、本当に悲しかったです。祖父が亡くなった後、旧江の島水族館も、急遽、30代だった母が継ぐことになりました。専業主婦だった母は、いきなり社長を任されて相当な苦労があったと思います。仕事のため殆ど家にいなくなり、私も寂しい思いをしました。当時、学校が休みの日に、出勤する母の車に乗って江の島にドライブに連れて行ってもらったことがありました。行き先は「えのすい」の海洋教室(笑)。こんな忙しいなかでも、母は私のことを気にかけてくれているんだなあと嬉しく思いましたよ。良い思い出ですね」

甲子園と神宮に憧れた野球少年

堀は、小学生の頃からの筋金入りの野球少年。東京六大学野球が行われる「神宮球場」を夢見て白球を追いかける日々だった。中学校では読売ジャイアンツの篠塚選手の華麗な守備に憧れ、セカンドを希望したが、監督からは『お前は体がでかいから、キャッチャーだろ!』と言われて却下。

高校野球部でも甲子園を目指したが予選負け。花園に出場していた高校ラグビー部の仲間からは笑われたが、それでも慶應での野球漬けの日々は、堀の学生生活に充実感とかけがえのない仲間たちをもたらしてくれた。

「一貫校でしたので、勉強はほとんどしませんでしたね(笑)。自分は東京六大学野球で神宮に行くために慶應義塾大学に入るんだから、勉強はしなくてもいいやと」

そう思っていた堀だったが、当然、母から「待った」が入る。将来実業家としての道を歩む堀にしっかり勉強してほしいと願う母から出された条件は、「経済学部に入れば体育会野球部に入部しても良い」だった。

「野球をやるためにはいきなり文系トップの学部への進学が条件だと言われて。必死に勉強しましたね。でも進学には学業成績だけではなく、日頃の活動など多くの点が評価される。試験だけだと手が届かなかったけど、生徒会の体育団体連盟の委員長なども任されて、内申でも合格点をもらうことができました」

この頃から堀は、組織の先頭に立って多くの人を率いていくための人望を備えていた。自分が狙った結果を出すために何が必要かを考えて行動を起こす。既に経営者の才覚が芽を出していたと言えるだろう。

大学入学、家業を継ぐ意志定まる

無事、母との約束を果たした堀は、1985年に慶應義塾大学経済学部に入学。入学後は体育会の野球部に入部し野球に打ち込んだ。日吉キャンパスの野球部合宿所に寝泊まりしながら、授業を受けてからグランドで練習という日々。子どものころから夢見ていた「神宮球場」で野球をやるという夢も叶えることができ、4年間、野球を完全にやり切ったという達成感があった。

将来は母の後を継いで江の島水族館の経営を担うという覚悟を既に固めていた堀。しかし、大学卒業後、どの会社で社会人のスタートを切るべきか迷っていた。

「当時はバブル景気で、慶應義塾大学野球部出身ということもあり、いろんな会社の先輩がリクルーターとして連絡をくれました。どこの会社も魅力的でしたが、決めることができなくて。そんな時、自分が将来家業である水族館の経営を担いたいと先輩に正直に話したら、『それならレジャー開発を行うデベロッパーか、数字に強くなれる銀行がいいんじゃないか』とアドバイスをくれたんです」

当時、信託銀行は、唯一銀行法で不動産開発が認められていた銀行。堀は「信託銀行に入れば、不動産開発とファイナンスの両方が経験できて将来に活かせる!」と確信し、金融業界へ足を踏み入れる決意をしたのである。

社会人の基礎を鍛えた行員時代

1989年、住友信託銀行に入社。最初に配属されたのは横浜の港南台支店だった。野球で鍛えた体力と精神力でがむしゃらに働き、営業実績が評価され、わずか3年で本部の法人営業へ抜擢。新規融資先の法人を開拓する仕事を任されたのである。その後大手製鉄会社や電力・ガスなどの大企業を次々と担当するようになり、有価証券報告書やアニュアルレポートを読み込み提言する融資の面白みが分かるようになっていった。

「支店の新人時代、営業で訪問したお宅で、おじいちゃん、おばあちゃんと1時間以上茶飲み話をするなんてこともありました。支店時代はとりあえず件数を回れば支店長に褒めてもらえたので、本部でも同じノリで法人営業に行って、『御社はどういう事業をやっていますか?』なんて初歩的な質問したら、『お前はバカか!普通、銀行員はちゃんと調べてから来るもんだ』なんて怒られたこともありました(笑)。でも、数字を読み解く苦しさや、稟議を通すための社内での交渉の大変さ、お客様や上司に怒られた経験、全てが今の私の糧となっています」

社長に就任、「V字回復」を達成

堀は、家業を継ぐため、13年間務めた住友信託銀行を退職。2002年に株式会社江ノ島水族館に入社し専務取締役に就任した。36歳のときである。

その頃の江の島水族館は、水族館・マリンランド・海の動物園の3施設1960年年代は200万人以上の客を集めていたが、1998年の来場者は30万人にまで落ち込んでいた。再起を図るため、神奈川県・藤沢市との共同出資による第3セクターで建設する予定で進めていた「江の島水族館の建替計画」。しかし、バブル崩壊により白紙になった。母・由紀子社長が最も苦労していた時期である。

「私が入社したのは、一旦頓挫しそうになった再建計画を実現するため、オリックスの参画が決まったタイミングでした。社内では上場企業の参入に『黒船到来』と大騒ぎ。旧来の社員にとってはカルチャーショックで、共同体で一緒にやっていくことができるのか、みんなが不安を感じていました。社長である母のもとで、オリックスをはじめ外部の企業や行政などの対外的な交渉をまとめるとともに、社員の意識の変革を進めることが私の役割でした」

堀は銀行員として培ってきた経験、知識をフルに活用し、この重責を見事に担い、日本初のPFI(民間の資金とノウハウを活用し公共サービスの提供を図る手法)で建替事業を実現。2年後の2004年、代表取締役社長に就任するとともに、新江ノ島水族館としてオープンした。リニューアル初年度の来場者数は180万人。その後もアベレージ150万人の来場者があり、新社長のもと、“えのすい”は見事なV字回復を遂げたのである。

「“えのすいらしさ”を表現するため、社員みんなでアイデアを絞り出していろいろな工夫を凝らしました。従来にはない水槽の表現や『お泊りナイトツアー』といった夜の体験プログラム、『世界初!3Dプロジェクションマッピングクラゲショー』など、近年、それが非常に好評で、他の水族館にはない、“えのすい”の新しい価値となりました」

「えのすい」の経営理念

“えのすい”では、堀を筆頭に社員全員が、同社の「理念」「信条」「行動指針」を示したクレドを持ち歩いている。クレドには、「つながる命の価値を最大限に伝えていく」「日本一居心地のよい水族館」「心からのおもてなし」などのキーワードが並ぶ。ここに堀の思いと会社の理念が全てつまっているのだ。

「常に読み返せるようにポケットサイズにしました。300人スタッフがいますが、クレドがあると『えのすい』が目指すべきものが明確になって、常にぶれずに、その価値をお客様に提供していくことができるんです。スタッフは、判断に迷ったときにこれを読めば原点回帰できます」

堀は、現在、藤沢商工会議所副会頭や藤沢市観光協会理事も務め、江の島にゆかりのある官民の協力を促進し、江の島周辺の価値を高める地域活性化事業にも貢献している。

フィールドミュージアム構想

堀が、現在力を入れているのが湘南・藤沢・江の島の振興ビジョンである『フィールドミュージアム構想』だ。“えのすい”の集客だけを考えるのではなく、地域全体を回遊性の高い観光スポットとして楽しんでもらうのが狙いである。

「湘南・藤沢・江の島の観光客はインバウンド効果もあって年間約1800万人。年間180万人のお客様が来場する“えのすい”は観光客の約1割が訪れている計算です。江の島周辺の観光客が増えていけば、当館の入場者も同じ割合で伸びていきます。地域の価値を上げて『フィールドミュージアム』として楽しんでもらうことが“えのすい”の発展にも繋がるんです」

「2020年度のテーマは『心からのおもてなし One Enosui』。新型コロナウイルスの影響で約3か月間の臨時休館となりましたが、スタッフ全員が一体となってこの状況を乗り越え、営業再開時にみんなでお客様をお迎えできたことが嬉しかったですね」

ブルーフラッグ取得を応援したい

堀は、海辺の国際環境認証「ブルーフラッグ」を西浜で取得することは、自らが提唱する『フィールドミュージアム構想』の実現にも繋がっていくものであると語る。

「ブルーフラッグを西浜で取得できたらすごいことですね。今の時代こそ、子どもたちへの環境教育が重要になってきます。森の豊かな恵みは、川を経由して海に流れ出る。森・川・海の連動性と循環を考えることが大切ですね。目の前に広がる相模湾は、日本唯一とも言える海洋生物の宝庫。そこから太平洋に繋がる海の出発点として、この海岸の環境を守っていくことはとても重要です。ブルーフラッグ取得をめざすことは意義あることですので、弊社もSDGs参画企業として応援していきたいですね。“えのすい”は、常に環境を守り、命を育み、つながる命の大切さを伝えていける水族館でありたいと思っています」

最後に多忙を極める堀に休日の過ごし方を聞いてみた。

「私は『まぐろ君』と言われていて、常に動いていないとダメなんです(笑)。体を動かすことが大好きですね。休日はゴルフやスポーツクラブに行くことが多いかな。最近は新型コロナウイルスの影響でしばらく行けずに、そのまま営業再開で忙しくなり、行けるのはもう少し先になるかな(笑)」

時代の変化とともに次々と魅力を発信する“えのすい”。これからも“えのすい”と堀のさらなる進化に目が離せない。(了)