藤沢商工会議所 会頭 増田隆之氏

あって良かった、なくては困る会議所へ

藤沢商工会議所 会頭 増田隆之氏

インタビュー・文 / 片山清宏・片山久美

 ここ数日の冷たい北風がやんでほっと一息、まさに小春日和といった陽気の土曜日の午後。商工会議所会頭室でインタビューは行われた。

 増田隆之。2016年から藤沢商工会議所会頭を務め、現在2期目である。

 颯爽としたスーツの着こなしや相手を緊張させない気さくな笑顔と穏やかな語り口は、現役ホテルマン時代を彷彿とさせる。彼の人生に迫った。

板場が遊び場

 1947年藤沢市生まれ。生まれも育ちも「藤沢駅前」である彼は、明治24年創業の旅館「角若松」の家に生まれ、六人兄弟の五男として育った。

 「先々代である曾祖父が、埼玉県の青木村(現在の埼玉県川口市)から藤沢に出てきて藤沢駅前に30坪ほどの小さな料理屋を買ったところから始まったと聞いています。藤沢駅が開設されたのが国鉄の横浜と国府津が開通した明治20年7月。当時は白旗神社の方が栄えていて、今の藤沢駅周辺は砂浜や野原が広がっていたそうです」

 川口の鋳物師だった先々代は、敷地を200坪ほどに広げ、料理店兼旅館業『角若松』として開業。その後、2代目に当たる増田の祖父の元に、当時、大山街道の中心地である長後宿の旅館から祖母が嫁ぎ、祖父はとても才覚のある人で、大いに土地を買い足し、駅前に1300坪の広大な旅館を経営したという。

 当時、百人以上の客を収容できる立派な大広間を備え、駅前という利便性の良さもあり、宴会や披露宴などが数多く催された。残念なことに、祖父は早逝し、18歳で3代目となった父の背中を見て育った増田の幼少期は、やはり、旅館が舞台だったという。

 「東京から藤沢駅に終電が入ってくるでしょう。小さい頃は、電車を降りたお客さんをお迎えするために母が駅で待っていたのを覚えています。私の遊び場はやっぱり旅館。いつも板前さんのいる板場を駆けずり回っていましたね。当時は東映映画が盛んだったので、覆面をしてチャンバラごっこ。上に兄が4人もいたこともあり、自由奔放に育ちました」

華やかな湘南での青春時代

 藤沢第一中学校を経て、神奈川県立鎌倉高校に進学。1964年、増田が17歳の頃、東京オリンピックが開催され、ヨット競技が校舎から見えた。「湘南」が一気に華やかさを増したこの時期、小さい頃から新しいことに敏感だった増田は、流行りのアイビールックに身を包み、髪にはポマードをつけて登校。車にも乗り、鎌倉や茅ヶ崎の友だちと遊びに行く。親にお金を無心しては好きなことに使うという青春時代は、高校卒業後、明治学院大学を2年で中退する時まで続いた。

 「明け方まで遊んで家に帰ると、母が私の部屋でうたた寝をしているんですね。なかなか帰ってこない息子を心配して部屋で待っているうちに寝てしまったんでしょう。苦労をかけたと思います。大学を中退した当時、長男が喫茶店を経営していて、お茶の水のシャンソン喫茶「ジロー」の店主と仲が良かったんです。それを見て、『自分もフランスに行って洋菓子の勉強をしてみたい』と思ったのです。第2外国語がフランス語だったし、1日1ドルで世界を放浪する人生も悪くないなと軽い気持ちで両親に話しました」

 話を聞いた父は、何も言わず、1通の紹介状を増田に手渡した。そして、一言、「10月になったら行きなさい」と。その紹介状は、その後の増田の人生を決める貴重な1通だったのである。

1通の紹介状で名古屋へ

 紹介状は、藤田観光株式会社が運営するホテル「名古屋国際ホテル」の常務にあてたものだった。増田は、名古屋行き新幹線の片道切符と5,000円、そして父から渡された1通の紹介状だけを持って家を出たのである。

 ホテル到着後、フロントで名前を名乗り、用件を告げるとまず連れて行かれたのが地下2階にあるリネン室だった。

 「はじめはフロントで接客について勉強するのかなあと思いながら行ったら、いきなり初日から真っ赤なユニフォーム。ベルボーイとして働くことになりました。当時の新婚旅行は伊勢志摩が定番で、新幹線を名古屋で降りて1泊して向かう新郎新婦が多かったんです。ちょうど1970年に開催された大阪万博を控えていたこともあり、朝から晩まで大忙しでした。だから、北は北海道から南は九州まで、同年代の人たちがホテルに働きに来ていました。仕事から帰れば寮暮らし、片道切符で実家には帰れないし、まさに逃げ場がない状態。でもその環境がかえって良かったんです」

 20歳まで藤沢で生まれ育ち、何不自由なく好き放題やらせてもらっていた増田にとって、生まれ育った環境や場所が違う人たちとともに暮らし、働くことは大きな刺激であり、新しい発見の連続だったのである。

 「もちろん、けんかや意見の衝突もありました。生意気だと言われて呼び出されたり(笑)。名古屋の人って、仲良くなるのは時間がかかるんですが、いったん仲良くなると本当に面倒見が良いんですね。同僚のお姉さんのお嫁入りを見せてもらったり、日帰りで行けるスキー場に連れて行ってもらったり。当時お世話になった方たちとは、今でも付き合いがあります。ただ、ご飯だけは苦労しましたね。ホテルの従業員食堂で食事をするのですが、名古屋の味噌汁はドロドロ。それが飲めなくて(笑)。きしめんも最初は苦手でしたが、だんだん好きになりました」

 増田は、持ち前の人なつこい性格と人付き合いの良さで、多くの常連客や有名人とも仲良くなり、お客様からいただくチップで給料の倍稼ぐなど、めきめきと実力を発揮した。1年半でメインダイニングルームを任され、その後は企画部の宣伝担当として20代の若さで藤田観光初のビジネスホテル「ワシントンホテル」の開業準備に関わるようになった。

 「メインダイニングルームで働いていたときは、フォアグラや高級ワインを味見させてもらえました。正直、修業中の身で味の違いはあまり分かりませんでしたが(笑)。ただ、ホテルに併設されているベーカリーに焼きたてのバターロールをこっそりともらい、それにホテルのバターをたっぷりつけて、フォアグラやワインと一緒に食べるとこれが本当にうまい。今でも思い出します。企画部では当時、クリスマスパーティーがとても盛況で、今でも活躍している女性歌手のディナーショーも多く担当しました」

藤沢へ帰り、地元へ恩返し

 そんな、仕事が面白くなってきた27歳の頃、父が心臓を悪くし、急遽藤沢に帰ることになった。今まで散々好きにやらせてもらった親や地元に恩返しをしたい。そんな気持ちを胸に、増田は、『角若松』の系列の中華料理店を切り盛りする新しい生活をスタートしたのである。

 当時は高度成長期、バブルがはじける前の時代で景気も良く、藤沢駅北口の5つの商店街でも、多くのイベントやお祭りが催され、活気にあふれていた。40代となった増田は、それらのイベント等に参加しているうちに少しずつ知り合いが増え、地域で与えられる役割も大きくなっていった。

 「イベントが終盤になると、片付けが終わる前に商店街連合会の仲間で酒盛りが始まるんです。最初の頃は一人で後片付けまでやればいいやと思っていたんですが、責任のある役をやるようになってきたこともあり、『やるからには片付けまで終えてから気持ちよく飲もうよ』と言うようになりました。元々やり始めるとちゃんとやらないと気が済まない性分なんですね。そういったやりとりを見てくれていた人たちが、私を信頼してくれるようになって。私が街に溶け込むことができたのは、イベントのおかげなんです」

 増田はイベントを通じ、自分より10以上も年上の先輩が街のために一店舗ずつ頭を下げて寄付集めをして回る姿を見て、衝撃を受けた。お金を集めてイベントをやることの大変さ、そしてイベントが成功した後の達成感、やりがいを知った。

 「イベントは厳しい。けどやっぱり楽しいんです。初めてやることは何でも、最初は確執がありました。でも、今いろいろなことが話し合いで解決できているのは、当時からしっかり心のすれ違いを埋めてきたからこそ。迎合したりや嘘をついたり、見栄を張ったりせず、自分が一番大事だと思うことを正直に話す。本当のことを言えばいつかは必ず相手もわかってくれると思うんです」

藤沢商工会議所会頭に就任

 2016年11月、藤沢商工会議所は臨時議員総会を開催し、当時商業部会長を務めていた増田を新会頭に選出。2期6年の任期を務めた田中正明前会頭(株式会社ミルスペース代表取締役)の退任に伴うこの人事では、増田が満場一致で新会頭に選ばれ、第24期会頭となった。

 「他の副会頭から会頭が選出されると思っていたので、会頭選出の打診を受けたときは正直戸惑いました。自分で務まるのかどうかと悩んでいたところに背中を押してくれた方がいたんです」

 それは、当時株式会社フジサワ名店ビル取締役会長の山岸弘氏。山岸氏からの電話で「会頭は受けざるを得ないと思う」と答えた増田に、山岸氏は「仕方なくするのではなく、自分で手を挙げないでどうするんだ!」と一喝。その言葉に、増田は、自ら立候補する決意を固めた。

あって良かった、なくては困る会議所へ

 2019年に藤沢商工会議所会頭に再任された増田は現在2期目。現在、新型コロナウイルス感染症拡大防止と経済対策の両立という難しい局面の舵取りを任されている。

 新型コロナウイルス感染症拡大に伴う経済対策として、藤沢商工会議所は、いち早く藤沢市への緊急提言を行うことで、3年間の全額利子補給・保証料全額補助の1000万の災害復旧資金の創設につなげた。また、飲食店にのみ低い金額が設定されている県の拡大防止協力金についても着目し、市単独の補償上乗せにも尽力。

 さらに、藤沢市・藤沢市商店会連合会と連携して実行委員会を立ち上げ、緊急事態宣言解除後の5月22日から6 月30日までの間、「ふじさわ応援 前売りチケット」事業をスタート。客が応援したい店で使用できる前売りチケットを“今”購入することで、苦境に立たされている店にエールを送り資金面で応援する取組みである。

 「クラウドファンディングも良いのですが、できるだけお客様の『顔』が見える応援をしてもらいたかったんです。結果、チケット事業に約180数店のお店が手を上げてくれ、合計で2,000万円弱のチケットをお客様に購入していただきました。チケット購入者には、お店への応援メッセージをつけてもらうようお願いをしたのですが、遠方からわざわざメールでメッセージを送ってくれる方もいらっしゃいました。お金だけではない、お店の気持ちが折れてしまわないような、『心の支援』ができたかなと思います」

 増田の『心の支援』は、現在の藤沢商工会議所の窓口体制にも現れている。会議所では、新型コロナウイルス感染症拡大に伴う緊急対策として、特別経営相談窓口を開設。10月末までに延べ1,900件以上の相談を受けた。通常を大きく上回る件数を前に、増田は、「とにかく親切に対応してあげてほしい」と職員にお願いをした。

 「まさに生きるか死ぬかの瀬戸際。皆さん必死で、中には1時間以上かかるお客様もいましたが、職員もとても親切に対応してくれました。その後、時間をかけて対応したお客様から、窓口への感謝の気持ちを込めて、マスクのプレゼントがあったんです。あの時はメンバーみんなで喜びましたね。当初は、『こんな時に会費なんて払えない』と商工会議所の会員が減少することを予想していたんですが、逆に会員になりたいと言ってくれる人が出てきたんです。ここまでの職員の頑張りに心から敬意を表します。『あって良かった、なくては困る会議所』に、また一歩近づくことができました」

「海」を生かしたまちづくり

 増田は現在、片瀬海岸に住んでおり、来夏の片瀬西浜海水浴場で取得を目指す海の国際環境認証「ブルーフラッグ」についても、藤沢の新たな観光資源として注目している。

 ブルーフラッグとは、デンマークに本部がある国際NGO FEE(国際環境教育基金)による世界で最も歴史ある国際認証制度である。①水質、②環境教育と情報、③環境マネジメント、④安全性・サービスの4分野、33項目の認証基準があり、毎年審査を受けて更新する必要がある。基準を満たしたビーチ・マリーナ等はその証として、青いフラッグを掲げることができるのだ。

 「今の若い世代は、海で遊ぶことがすごく少なくなってしまいましたね。海水浴やマリンスポーツもよいのですーフラッグビーチとして何かやれたら良いですね」

 全国トップの海水浴客数を誇る西浜での取得は、安全・安心できれいな海づくりの象徴事例として、国内のビーチへ大きな影響を与えるだろう。このビッグプロジェクトに対し、増田も積極的に応援していきたいと語る。

会議所がやらなくて誰がやる

 増田は、藤沢商工会議所会頭として、ある覚悟を持っている。

 2011年の東日本大震災。会議所のメンバーや市職員とともに釜石市に現状視察に行った時に釜石市商工会議所会頭から聞いた言葉がそのルーツだった。

 「釜石の会頭さんは、ご家族全員が津波で流されたそうです。そんな状況のなか、『俺がやらなきゃ、市長の首を絞めてでもやらなきゃいけない』と思ったこと、それが釜石の商業・産業を復興させることだったそうです。商業・産業を復興させるのは市ではできない、商工会議所にしかできないこと。『会議所がやらなくて誰がやる!』そうおっしゃっていた釜石の会頭さんの覚悟を、自分が会頭としてこのコロナ禍に直面して、もう一度思い出したんです」(了)