藤沢の歴史を未来へつなぐ
公益社団法人 藤沢市観光協会 会長 湯浅裕一氏
インタビュー・文 / 片山清宏・片山久美
江島神社参道沿いにある老舗和菓子店・(有)紀の国屋本店。店内に掲げられた青いのれんには、「寛政元年創業」と書かれている。この店の看板商品である江の島名物・女夫饅頭(めおとまんじゅう)は、茶饅頭と白饅頭の2種類があり、熟練の職人による手練りあんこが有名である。
観光客で賑わう店の店頭に立つ人物。湯浅裕一。公益社団法人藤沢市観光協会会長であり、(有)紀の国屋本店の代表取締役である。白衣に身を包み、手早くおまんじゅうやお土産を包みながら、一人ひとりに気さくに声をかける。その場で美味しそうに饅頭を頬張る子どもや若者の笑顔を見るとうれしくなる。彼の人生を追いかけた。
「おじいちゃん子」だった幼少時代
湯浅は1950年、藤沢生まれ。創業220余年の歴史を誇る老舗和菓子店・(有)紀の国屋本店の9代目として生まれた。
「妹と2人兄妹で、小さい頃の私はおじいちゃん子でした。両親は店に出ていたので、運動会でも授業参観でも、見に来てくれるのはいつも祖父。小学校2年の時、祖父と職人さんと3人で大島に旅行に行ったことがあるんです。初めて飛行機に乗れるということで大喜びだったんですが、天候不良で飛ばなかった。私が機嫌を損ねてふてってしまって、ずいぶん祖父を困らせたそうです。旅行は急遽熱海に変更し、電車の中でもブスーっとしていたそうですが、到着したらニコニコしていたそうですよ。祖父を知る人からは、今の私の雰囲気は先々代である祖父によく似ていると言われますね」
小学校から高校まで、地元の私立湘南学園に通った。野球が大好きで父と同じ大の長嶋ファンで小学校4年生から6年生までピッチャーでエース。また、江の島育ちの名に恥じず、水泳が得意だった。
「小学校4年の時に学園にプールができました。当時プールのある学校は珍しくて、25メートルプールにみんなが大はしゃぎ。私は毎日のように島で泳いでいたので、泳ぎは得意でした。当時学校内の自由形の記録を持っていましたよ。島の仲間と泳ぎに行くのが楽しくて、夕方遅くまで帰ってこない。江の島の海はとてもきれいでしたしね。本当に恵まれた場所に住んでいました」
東京オリンピックと江の島
東京オリンピックが開催されたのは1964年、湯浅少年が14歳の時。当時、江の島へ渡る道路橋は、「弁天橋」という人道橋のみであったが、東京オリンピックのヨット競技のために江の島港が建設されたことに伴い、自動車専用の橋として橋長324mの「江の島大橋」が架けられたのである。
「江の島大橋が開通して初めて、島に車が入ったんです。それまでは江の島で車の運転免許を持っている人はほとんどいなかった。江の島大橋が開通したとき、藤沢市から江の島の消防団に消防車両が寄贈されたんですが、免許がないから誰も取りに行けない。どうしようということで島内中探したら、一人だけ免許証を持っていた人がいた。それが元観光協会会長の二見幸雄さんだったそうですよ」
江の島大橋の開通による車の往来が始まるまで、当時の弁天橋は橋の途中で「渡橋料」を支払う仕組みだった。島民はもちろん全員「顔パス」。みんなの顔が見え、生業や生活を分かち合うおおらかでアットホームな島だったのである。
商売の楽しさを知った学生時代
運動だけでなく勉学にも力を入れ、文武両道だった湯浅。湘南学園での高校生活3年間で印象に残った思い出は、学園祭だった。
「学園祭実行委員会に入り、販売責任者の係をやったんです。各年度の売上目標を設定して、目標達成することに夢中になりました。1本40円のコカ・コーラを売って、前の年より1本でも多く売れるととても嬉しかった。今思えば、商売をすること、物を売ることが好きだったんですね。みんなはお祭りに夢中でしたし、売り上げなんてそんなに気にしていませんでしたけどね。私が一番頑張っていました(笑)」
湘南学園でののびのびとした12年間を終え、法政大学に進学。しかし、大学時代は、ほとんど「学生」ではいられない現実があった。大学入学後、ほどなくして学生運動が始まったのである。運動の拠点だった大学は、バリケードができ、授業を行っていると教室に石が飛んでくるような状態だった。
「大学3年生になってやっとまともに授業が始まったような状態で、1・2年は勉強した記憶があまりないですね。神楽坂の雀荘に入り浸って、一日過ごすような自由な生活をしていました。あまり入り浸りすぎて、お店のおばさんが私の顔を覚えてくれて。行くと餃子ライスを出してくれましたね(笑)」
自由な時間が多くあった湯浅は、大学2年生の時に北海道旅行を企画。10日間の旅程だったが、その体験が、自分のその後の進路に大きく影響を与えることになった。
「湘南学園の同窓生の男4人で、友だちの車に乗っての気楽な旅でしたが、私が10日間の旅程をすべて計画しました。野宿をしたり、旅館に泊まるときに交渉をしたり。初めてのことばかりでしたが、現地の人とやりとりするなかで、自分が会ったことのない景色や人、もの、体験したことのないことにふれあうことができた。旅の楽しさを知りました」
旅好きが高じて旅行会社へ就職
その体験に導かれるようにして、大学卒業後は大手旅行会社に就職。添乗員から始まり、営業、修学旅行担当、国内旅行担当、海外旅行担当など10年間をかけてあらゆる経験をした。
「将来は紀の国屋を継ぐつもりはありましたが、修行のため就職しました。祖父も旅行が大好きだったからか、私も旅行が好きだったんですね。旅行で会う方とは、一緒に過ごすとお互いの人間性が分かるから、すぐにお友達になっちゃうんですよ。社員旅行や修学旅行の添乗も多くやりましたので、大企業の取締役や学校の先生とも仲良くなりました。今でもお付き合いのある方もいますね。学生の頃は気弱で、人前で話すことは苦手だったのですが、この10年間で自信がつきました。」
旅行会社で活躍し、充実したサラリーマン生活をしていた湯浅。いろいろな仕事を任されるようになり、仕事が面白くなってきた矢先、紀の国屋の職人さんから、「後を継ぐのなら1年でも早く入って技術を磨け」と言われた。50年あんこを作り続けるベテランの職人さんからの重みのある助言。湯浅は、悩んだ末、入社10年、33歳で退職を決意した。
火傷だらけの再スタート
心機一転、「おまんじゅう屋」としての湯浅のスタートは、あんこの練り方から始まった。職人さんに毎日怒られる日々が続いたという。
「うちのあんこの仕込みは手練りなので、最初は火傷だらけ。今でも火傷の痕がたくさん残っています。『毎日いるんだから1年もやればできるようになるだろう』と思っていましたがとんでもなかった。手練りの餡を使っている饅頭屋は今、県内ではうちだけ。企業秘密ですが、あんこの練り方は春夏秋冬で違うんです。最初はそれを覚える。職人の気質は何もなかったので、うまくできずたくさん怒られましたね。ようやく自分のあんこに自信が持てるようになったのは、45歳くらいになった頃だったかな」
老舗和菓子店の重い看板を背負い、修行を重ねる一方で、それまで住んでいた鵠沼から江の島に居を移し、島内での人との繋がりを少しずつ築いていった。
「島から出て18年経っていた私が、江の島の人たちの仲間に入れてもらえたのはゴルフと消防団でした。『島友会』という島内のゴルフ仲間の会があって、そこで先輩方にかわいがってもらいました。毎年6回ずつやってもう40年になる会です。消防団は、26年間。最後の2年は団本部の副団長をやらせていただきました。そこで得た行政の方と繋がりは、その後の活動でも生かすことができました」
消防団は、地域における消防防災のリーダーとして、平常時や非常時を問わず市内の各地域に密着し、市民の安全と安心を守るという重要な役割を担う。団員は、火災発生時における消火、地震や風水害といった大規模災害発生時の救助・救出・警戒巡視・避難誘導・災害防御等のほか、平常時には様々な訓練、研修、会議、特別警戒、広報活動にも従事する重要な任務を負っている。藤沢市の消防団は全31個分団あり、それらを束ねる組織が団本部である。消防団長が1人、副団長が3人おり、湯浅は副団長を2年間にわたり務めあげた。
江の島振興連絡協議会会長としての決断
江の島には、江の島東町町内会、江の島西町町内会及び江の島弁天会という3つの町内会がある。江の島振興連絡協議会は、これらの町内会を束ねる組織であり、副会長はそれぞれの町内会長が務めている。
湯浅は、2010年に江の島振興連絡協議会会長に就任し、江の島の発展、島内環境の充実に取り組んできた。2018年から始まったセーリングのワールドカップシリーズでは、各国から集まったセーリング選手へのおもてなしとして、ウェルカムフェスティバルを企画。江の島の女性たちとセーリングの選手が「江の島ヨット音頭」や「五輪音頭」を一緒に踊ったり、海上渡御の神輿を選手たちが一緒に担ぐなど、大きな盛り上がりを見せた。
そして、江の島振興連絡協議会会長として10年目を迎えた2020年。4月16日から1ヶ月以上にわたり、新型コロナウイルス感染症拡大防止のための緊急事態宣言が発令。江の島にある約70の観光事業者のほとんどが営業自粛という、誰も経験したことのない厳しい事態が生じたのである。
このとき、湯浅はある決断をした。江の島振興連絡協議会から住民への支援金の配布である。
「協議会は設立から40年、初代会長から数えて私が4代目です。この間に協議会の事業などで少しずつ積み立てていたお金を島民への支援金として使おうと。緊急事態宣言が発令されてから、江の島の観光業がめちゃめちゃになりました。観光事業者だけではありません。誰もが同じように苦労していた。なんとしなければいけないと、いてもたってもいられませんでした」
湯浅は、まず初代会長の宇田川英男さんに相談し、賛同を得た翌日、役員を紀の国屋に集めて内容を説明。江の島に住む約160世帯の住民に対し、江の島振興連絡協議会から1世帯につき10万円ずつ寄付をするというものである。役員は全員賛同し、決断から2週間後、ゴールデンウィークに入る前には全世帯に配布することができたのである
藤沢市観光協会会長に就任
2020年6月23日。緊急事態宣言が解除された1か月後の総会・理事会で、湯浅は公益社団法人藤沢市観光協会会長に就任した。
「突然の話だったので驚きましたが、コロナ禍で疲弊した観光業界を回復させ、発展させていくために力を尽くしたいという思いでお受けしました。大学時代の北海道旅行から始まり、旅行会社での10年間、私にとって観光業に携わること、観光協会会長の職をお受けすることは運命だったと思っています。今年はコロナの影響でほとんどのイベントが開催中止となってしまいましたが、来年はオリンピックも開催予定ですし、様々な仕掛けをして藤沢市の観光を盛り上げていきますよ」
きれいな海をもう一度
江の島一帯の重要な観光名所の一つとなっている片瀬西浜・鵠沼海水浴場は、現在、海辺の国際環境認証「ブルーフラッグ」の来夏取得に向けた取組みを行っている。
「海がきれいなことは一番の基本だと思います。木造の弁天橋しかまだなかった頃、橋を歩くと足下の隙間で水がキラキラ光ってきれいな魚がたくさん見えたんです。そんな時代に江の島が戻れたら、今よりもっと魅力がアップしますよね。西浜・鵠沼でのブルーフラッグの取得、ぜひ応援させていただきますよ」
ブルーフラッグとは、デンマークに本部がある国際NGO FEE(国際環境教育基金)による世界で最も歴史ある国際認証制度である。①水質、②環境教育と情報、③環境マネジメント、④安全性・サービスの4分野、33項目の認証基準があり、毎年審査を受けて更新する必要がある。基準を満たしたビーチ・マリーナ等はその証として、青いフラッグを掲げることができるのだ。
片瀬西浜・鵠沼海水浴場は、日本一の海水浴客を誇る湘南の象徴的な海水浴場である。それらの海水浴場が、「きれいで安全、安心な海」の象徴であるブルーフラッグを掲げることは、江の島を中心とした観光事業、ひいては湘南の観光ブランドの向上にも大きく貢献する。観光業を生業としてきた湯浅は、その重要性を誰よりも強く認識しているのである。
江の島の歴史を語り継ぐ施設を
インタビューの終わりに、湯浅は、藤沢市の観光の中心である今後の江の島の展望について話してくれた。
「2003年に江の島新展望台が完成し、江の島サムエル・コッキング苑が開苑しました。翌年にはリニューアルオープンした新江ノ島水族館さんのおかげもあり、江の島が通年観光できる観光地として全国区になりました。ただ、観光地として一流になりかけているけど、まだ足りないと思っています。江の島には源頼朝をはじめとした日本の歴史や、東京オリンピック当時の資料など、後世に伝える貴重なものがたくさんありますが、それらを伝える資料館や歴史博物館がない。今の江の島観光は江の島を一回りして2~3時間で終わり。観光の質を厚くするという意味でも、歴史を語り継ぐ施設ができたらいいですね。そうすれば持続可能な観光にもつながると思います」
湯浅の挑戦は始まったばかりである。(了)