美しく豊かな逗子海岸を未来世代に残したい
逗子海岸営業協同組合理事長 菊池千春氏
インタビュー/白取朋恵 文/田島加奈子
逗子駅から住宅地を通って15分ほど歩くと、たくさんのブルーフラッグのロゴを冠したフライングバナーが海風にはためく光景が目に映る。逗子海岸海水浴場だ。逗子海岸は、「駅近・遠浅・波が穏やか」が特徴で、その浜の長さから「ハーフ・マイル・ビーチ」と呼ばれ、多くの家族連れやマリンスポーツを楽しむ人たちで賑わっている。
歴史あるこの海岸を、長きに渡って発展させた人たちがいる。逗子海岸営業協同組合のメンバーだ。歴代メンバーが築き上げた実績と経験を引き継ぎ、地域住民・行政と共生しながら、更に発展させようと取り組んでいる。その中心人物、逗子海岸営業協同組合理事長 菊池千春。海のそばで生まれ育ち、逗子海岸を愛して止まない根っからの海人。そんな彼の半生を追った。
逗子の海とともに育った幼少期
1962年、神奈川県逗子市生まれ。実家は米屋を営むかたわら、夏の間、菊池の祖父が経営する海の家「浪子亭」を手伝っており、幼少期の菊池も、両親に連れられ海辺で過ごす毎日だった。
「両親は忙しくてなかなか遊んでもらえなかったけれど、その分組合の皆さんに遊んでもらっていたからね。良い思い出ばかりですよ。アイスキャンディー売りの大きな箱から出てくるアイスを買って、海を見ながら舐めるのが楽しみだった。」
菊池の生まれた1962年は、オリンピック東京大会に向けての高度成長真っ只中、2年後の10月に湘南有料道路鎌倉・逗子間が開通した。1957年から始まった海上で行う野外イベント「海上ページェント」は、1969年まで毎年開催され、逗子市の名物行事として活気にあふれていた。
「海上ページェントのステージでは、バンド演奏や、ミスビーチコンテストなども行われて、一番多い時では300万人以上も訪れる賑わいでした。令和元年度の逗子海水浴場の来場者数は約33万人だから、昔はその10倍以上の賑わいがあったんですね。ビーチは足の踏み場もないくらい。そんな活気溢れる逗子海岸が、今でも鮮明に心に焼き付いています。」
スポーツに打ち込む学生時代
逗子市立久木中学校、新設の逗葉高校に進学した6年間は、野球部に入部。ポジションはピッチャーとレフトの二足のわらじで、練習に明け暮れる日々だった。
「毎日10kmのランニングと、部活が終わってからは自主トレーニングで逗子海岸を5往復していました。今だから言えるけど、正直なところキツかったよ。」
『高校を卒業したら米屋の跡取りとして丁稚奉公に行け!』と言う父親をなんとか説得し、神奈川大学に進学。経済を学びながら、家業の米屋の配達、パン屋やガソリンスタンド、冬はスキーのツアーコンダクターなどのアルバイトをいくつもこなした。また、友達に誘われウインドサーフィンを始めた。
学業、スポーツ、アルバイトと充実した毎日を送っていた菊池だったが、父親からのある相談で、その後の人生を決める運命的な経験をすることになる。
「浪子亭」の大学生店長として経営を学ぶ
「浪子亭」は、100年以上続く老舗の海の家。その浪子亭は、祖父が亡くなって後5年ほど休業していた。菊池が大学に入った頃、父親から、「店を任せるから自由にやってみろ」と言われたのである。幼少期の菊池の原風景でもある浪子亭に新たな命を吹き込むため、菊池は大学生店長として知恵を絞り、夢中で店を経営した。
「建物やメニューは予め決められていたので、独自でできる内装に力を入れました。壁に絵を書いたり、装飾したり、とことんこだわった。仲間とあれこれ相談するうちに、気が付くと23時。「明日も仕事があるんだから早く寝ろ!」と父親に怒鳴られてしまうエピソードもありましたね(笑)」
努力の甲斐があり、浪子亭は、以前と変わらぬ活気を取り戻した。その頃から、誰に教えられるわけでもなく独学で経営を学んできたのだ。
サラリーマンから家業へ
大学を卒業後は、知り合いの米屋での修行をするよう言われていたが、「家業を継ぐ前に、社会勉強をさせて欲しい」と父を説得。1年間の約束で、日本ユニシス株式会社に入社。その後も、理解ある母親の協力でサラリーマン生活を続けていたが、母親の他界をきっかけに13年勤めた会社を退職。米屋の二代目・浪子亭の四代目として、新たなステージが始まった。菊池が35歳の時だ。
先代から受け継いだ家業をさらに発展させる秘訣は「何事も楽しむこと」だそうだ。とはいえ、二つの仕事を切り盛りするのは相当大変だと想像できる。繁忙期には100日連続勤務もあるというが、「季節ならではの仕事があることで、メリハリがつけられる。海岸での非日常的な感覚を楽しみ、充実した毎日を過ごしている。体力的にきついことがあっても、サポートしてくれる人達に恵まれているから、なんとかやってこられていると思うよ。」と語った。
逗子海岸営業協同組合の理事長に就任
2015年2月、53歳で約40ある海の家関係者が作る組織、逗子海岸営業協同組合の理事長に就任した。菊池が就任する前から、組合は、営業時間や音楽の使用をめぐって市と裁判で争うなど対立構造が際立っていたが、就任後に協調路線を打ち出し、組織のまとめ役と市との折衝役をになった。また、「組合員同士のコミュニケーションづくり」を新たに目標に掲げ、組合内に役割ごとの部会を新たに設置するなど、新体制の構築を次々と手がけたのである。
2021年夏。就任後、6年かけて構築してきた組合は、年々組合員の数を増やし、さらに一致団結・風通しの良い運営ができるという理想の形になりつつあった。そのようななか、菊池は、就任時に自らが掲げた「老若男女が隔てなく楽しめる海」をつくるため、「ブルーフラッグ認証取得」という新たなチャレンジをスタートしたのである。
最高の海を目指して~&beachの活動~
ブルーフラッグとは、デンマークに本部がある国際NGO FEE(国際環境教育基金)による世界で最も歴史ある海辺の国際環境認証制度である。①水質、②環境教育と情報、③環境マネジメント、④安全性・サービスの4分野、33項目の認証基準があり、毎年審査を受けて更新する必要がある。基準を満たしたビーチ・マリーナ等はその証として、青いフラッグを掲げることができるのだ。
「2022年には私たちの逗子海岸にもブルーフラッグを掲げたい。」と、菊池をはじめとした逗子海岸協同組合が中心となり、一般社団法人&beach(アンドビーチ)を立ち上げた。ビーチクリーン、地域住民への啓発活動などの実施、あらゆる人が海岸で楽しめるためのバリアフリー化への取組など、ブルーフラッグ取得に向けて動き出している。
「&beachでは、『清掃活動』、『パトロール(事故防止活動、人命救助活動)』、『海の家支援』の3つを軸に活動を行っています。地道な活動ですが、ブルーフラッグを取得して、国際的にも認められた「最高の海」を実現したいですね。」
取得が実現すれば、国内では6例目、神奈川県内では鎌倉市由比ガ浜海水浴場、藤沢市片瀬西浜・鵠沼海水浴場に続き3例目の快挙となる。
コロナ禍で感じたワンチームの結束力
2020年、2021年は、逗子海岸海水浴場にとって試練の夏となった。新型コロナウイルス感染拡大による海水浴場の休場である。2020年は期間中の休場となり、2021年は、7月に待望の海開きを迎えたものの、その後のまん延防止等重点措置地域指定による酒類提供の禁止、8月からの緊急事態宣言による海水浴場の休場と、目まぐるしく変わる状況に組合も多大な負担を強いられることとなった。
そんな状況の中、『逗子海岸をみんなで守っていこう』という声が組合内部から上がり、海上警備・パトロール・ビーチクリーン・周辺の清掃などを、毎日実施。この行動力に、菊池は、仲間達を頼もしく感じ、ワンチームとしての結束力を実感したのである。次第に、組合員以外の参加者の輪も広がっていった。
「毎日続けているこれらの行動を見て、地域住民の方々もいままでの組合とは違うと感じてくださったのではないだろうか。
逗子海岸プラごみ削減プロジェクト
逗子海岸海水浴場のホームページを見ると、目に飛び込んでくるのが、お腹の中がプラごみでいっぱいの魚のイラストだ。「逗子海岸のゴミは、どこから来たの?どうすればなくなるの?」の問いかけと、メッセージが書かれている。そして、先ずは「海の家の人たち」ができることとして、
・事業ゴミを適切に処理します。
・廃油はリサイクル回収、油分を含む排水は回収します。
・生分解性の洗剤を使用します。
・使い捨てプラスチックカップ、プラスチックストローを使用しません。
・テイクアウト容器、ビニール袋はなるべく環境負荷の少ないものを使用。
・開設期間中毎日ビーチクリーンを行います。
・当番制で近隣地域清掃を行います。
などが挙げられている。ここに組合員たちの海に対する思いと、ごみ削減への決意が読み取れる。自らを律し、協力し、一丸となってより良い環境のために尽力している。」
また、来場者に対しても、海岸中央部に可愛くお洒落なエコステーションを設置し、ボランティアによる分別ナビゲートや、海岸にゴミになるものを持ち込まないよう呼びかけをするなどの活動も行っている。そして、ビーチの美化を保つことで、街中のゴミ削減にも繋げよう、という目的もあるという。そして、ビーチの美化を保つことで、街中のゴミ削減にも繋げよう、という目的もあるという。
海を愛して止まない
「逗子海岸の非日常を、海水浴客のみなさんにも味わって貰いたい。帰る時に『逗子っていいところだなぁ!また来たい!』と、思ってもらえたら嬉しいね。それが自分の活力の源。」と楽しそうに話す。そして、多忙な毎日の中「趣味のサップやヨットを楽しみ、さらにクルージングをしながら仲間と乾杯することが何よりも楽しい」と笑顔を見せた。
菊池の、未来の逗子海岸のイメージは「子供の頃の逗子海岸」。幼少期にワクワクした、たくさんの思い出が心に残る。「美しい海岸を、美しいまま未来へ繋げていきたい。」そう語る横顔に、真っ黒に日焼けした菊池少年が重なった。海を愛して止まない根っからの海人の、未来へのスクリーンがそこに広がっていた。(了)