湘南でソーシャルイノベーションを
株式会社HiRAKU代表取締役 廣瀬 俊朗氏
インタビュー・文 / 片山清宏・片山久美
7月。片瀬西浜・鵠沼海水浴場にとっては、待ちに待った2年ぶりの海開きである。雨が降ったり止んだりする天気のなか、晴れ間をねらって撮影をしようと待ち合わせ場所に小走りで向かう。すると、なんとも言えない良い表情で海を眺める彼の姿を見つけ、思わずカメラを構えた。精悍な顔立ちに、時折見せるはにかんだ笑顔。真っ白なTシャツには、たくましい二の腕が何より似合う。
廣瀬俊朗。
ラクビー日本代表キャプテンとして活躍し、ラグビーワールドカップ2015では日本代表史上初の同一大会3勝に貢献。通算キャップ28。引退後はセカンドキャリアを志し、株式会社HiRAKUを設立し代表取締役に就任。家族とともに移住したここ藤沢市鵠沼で、廣瀬は新しい挑戦をしようとしている。彼の激動の半生を追った。
運命のラグビーとの出会い
1981年、大阪府吹田市生まれ、豊中市育ち。ラグビーの盛んなこの地で生まれた廣瀬は5歳からラグビーを始め、2歳下の弟と、のびのびとした少年時代を過ごした。
「父は体育の先生、母はピアノの先生をしていました。大阪はラグビーがとても盛んなエリアで、吹田や豊中でも、普通にラグビースクールがありました。叔父がラグビーをやっていたこと、“集団のスポーツをやらせたい”という親の方針もありラグビーを始めたのですが、最初は『何で休みの日の朝に早起きして行かなきゃいけないのか』とイヤイヤながら行っていました」
年度途中から入会したこともあり、はじめはなかなか友だちもできず、乗り気でなかった廣瀬だったが、鬼ごっこや手つなぎ遊びといった遊びを通じて、楽しみながらラグビーの基礎を学ぶ「エンジョイ・ラグビー」を掲げる吹田スクールの方針が気に入り、すぐに夢中になった。学校にはない、真っ青な芝生のグラウンドで思い切り駆け回ることができることも、毎週日曜日の楽しみの一つとなった。
人見知りで、しゃべるのも苦手な少年
たくさんの経験をさせたいという母の思いがあり、小学校からはラグビーだけでなく、ヴァイオリンを習い始め、夏にはスイミングスクールにも通った。
「元々人見知りで、人前でしゃべるのは得意でないタイプでした。ヴァイオリンも鞄を持っているのが恥ずかしくて。女の子のイメージがあったんですね。身体を動かすのが好きだったので、小学校4年生くらいからは放課後は毎日サッカーをやっていました。近所で缶蹴りをしたり、とにかく外で遊んでばかりいましたね」
中学は、ラグビー部のある豊中市立第十四中学校に進学。平日はラグビー部、土日はラグビースクールとラグビーにどっぷり浸かった中学時代を過ごした。
「ラグビー部は3分の1くらいが経験者でした。腕っぷしに自信があってちょっとやんちゃな人たちが入る部活で、そういった人たちとの交流も新鮮で楽しかったです。自分は、一緒に遊んではいるけど基本はマジメで勉強もこっそりやっているタイプ(笑)。中学3年生ではキャプテンを務めました」
悪ガキ揃いだが仲の良い仲間たちとの最高のラグビー生活を満喫し、高校受験を意識しだしたのは中学2年生の半ばごろ。高校府立学区で一番の進学校だったことと、大好きだった祖父の母校であったこと、そしてラグビーの強かったことが決め手となり、府立北野高校を志望した。
『文武両道』の精神を身に付けた学生時代
「一回り上の先輩には橋下徹さんもいる学問でもラグビーでも有名な学校だったので、目標を決めて一心不乱に、猛烈に勉強しましたね。その頃から、『文武両道』という精神が自分の身についてきたと思います。受かったときは『よっしゃー!』とガッツポーズ。本当に嬉しかった。でも、入学していざラグビー部に入部したら、昔の強豪校の面影はなく、困ったなと思いました」
ラグビースクールは中学で卒業し、高校ラグビーは府大会ベスト32で敗退という結果だったが、廣瀬の並外れた才能は、ラグビー激戦区である大阪で活躍する選手たちの中でも一際輝いていた。
「高校のラグビー部で花園を目指すという目標は叶いませんでしたが、ありがたいことに大阪選抜に選ばれたんです。高校1年生の時から選抜合宿が始まりました。最初は200人くらいいるんですが、2年間かけてどんどん落とされて。国体に選抜される頃には30人になっていました」
廣瀬は、高校3年生の秋になっても選抜チームに招集され、レギュラーとして国体で活躍。見事優勝を果たした。さらに選抜された日本代表ではキャプテンに任命され、高3最後の春でウェールズ、フランスへ人生初の海外遠征も経験することができた。
名門 慶應義塾大学ラグビー部へ入部
高校卒業後、ラグビー推薦で入れる大学からの勧誘もあった。しかし、母からも受験を勧められた廣瀬は、ラグビーと勉強の二足わらじで頑張り続けた結果、指定校推薦で慶應義塾大学理工学部へ進学。創部100周年を迎える名門ラグビー部の一員として新しいスタートを切った。
大学4年生で120名という大所帯のキャプテンに任命された廣瀬は、チームを率いる難しさ、怪我によるチーム離脱という挫折を味わいながらも、この頃から本気でプロを意識するようになる。
「最初は数学が好きだったので、将来理系の分野での仕事ができたらなあと思っていました。会社員ですかね(笑)。本気でラグビーの道に進もうと思ったのは、関東学院大学との引退試合を経て、改めて自分とは次元の違う世界があることを知り、もっとプレーしたいと思うようになってから。ちょうど在学中にプロチームからお誘いをいただいたこともあり、悩んだ末にラグビーを続けることを決意しました」
2度の試練を乗り越えトップリーグ優勝
2004年、東芝に入社し東芝ブレイブルーパスに入団。2年目からレギュラーとして活躍し、2007年度から2011年度まで主将を務めた。
「3年目にキャプテンになったんですが、前任者の冨岡鉄平さんは、『こんな人いるんだ』と思うような素晴らしい人。1年目は前任者のマネをする典型的な失敗パターンをしてしまい、ふがいない成績になってしまいました。これではだめだと1年目をフィードバックして2年目、捲土重来を期して出直しました」
チームが一丸になり、トップリーグで勝ち続けていた矢先、廣瀬に試練が訪れる。チームメンバーによる2度の不祥事によるラグビー部存続の危機だった。廣瀬は、心が折れそうになりながらも謝罪会見に同席し、「神は乗り越えられる人にしか試練は与えない」という言葉を胸に、ラグビーを再開できる日を信じて待った。
会社から練習再開の許可が下り、メンバー全員で集まったその日、廣瀬はキャプテンとして話をした。
「『自分は仲間のことが大好きで、みんなが頑張ってきたことを誰よりも知っている、そんな自分たちがだめなチームで終わるはずがない、ラグビーに対する愛を示そう!』と、何も考えず、自分の中にある言葉を素直に吐き出しました。ドラマ「ノーサイド・ゲーム」での会議室でのやりとりそのものでしたね。みんなに気持ちを伝えると『よっしゃー!』と。準備練習はほとんどない状態で試合に臨みましたが、みんなが圧倒的な集中力、パフォーマンスを発揮してくれて、トップリーグでの優勝を果たすことができました」
日本代表キャプテンに就任し世界と戦う
廣瀬は、日本代表チームへは2007年に選出されて以降、選出されていなかったが、そのことに対する悔しさは感じていなかった。なぜなら、その間は東芝でキャプテンとして活躍、優勝も経験し、ラグビー選手としては充実した日々を送っていたからである。しかし、そのことに廣瀬はある思いを抱いていた。
「ラグビー選手はそれぞれの企業で結果を残すという思いが強く、サッカーなど他のスポーツと比べ日本代表に対する思いが希薄であると感じていました。日本代表がもっと強くなり、選手が日本代表であることに誇りを持つことができれば、ラグビー選手になりたい子どもたちがもっと増える、ラグビーが日本でもっと愛されるようになると思っていました」
そんな折の2012年3月、日本代表チームのヘッドコーチに就任することが決まっていたエディー・ジョーンズ氏から、日本代表のキャプテンを打診されたのである。
「2012年に監督が替わったタイミングで、エディさんが声をかけてくれて。分倍河原のカフェで、『来年俺がヘッドコーチをやるからキャプテンをやってくれ』と言われたときは本当に光栄でしたね。『来た!』と思いました」
「世界一の練習量」を誇るエディー・ジャパンは、廣瀬キャプテンのもと、アウェーでの欧州勢(ルーマニア)初金星に続き、2013年6月、当時世界ランク5位のラグビー大国で、2年連続ヨーロッパ王者の「レッドドラゴンズ」ことウェールズに歴史的な勝利を収めた。ウェールズに勝利した瞬間、秩父宮ラグビー場に押しかけた2万人の観客たち、そして日本中のラグビーファンの心が震え、誰もが桜のジャージーを誇りに思ったのである。
日本のラグビー界の発展に貢献
そして2015年のワールドカップ。廣瀬は、2014年にリーチマイケルにキャプテンを交代した後も、精神的支柱としてチームを支え続けた。
「ウェールズ戦で勝利したあと、キャプテンが変わってからは試合の出場機会が減り、自分の居場所がなくなったと感じ、代表を辞退しようかと悩んだこともありました。ワールドカップの最後の出場チャンスがなくなったときは、この4年間を思い返し、正直辛かったです。でも、それと同じくらい、今のチームがとても良いかたちであること、『何のためにラグビーをやっているのか』をみんなが共有している素晴らしいチームができたことに、とても嬉しい思いもありました」
「『廣瀬さんがいてくれたから今の日本代表チームがある』と言う言葉を聞いて、今までの頑張りを否定したくないと思いました。一生懸命がんばったけど試合に出られないこともある。でも、それを全て無駄だったと思うのではなく、そこから何を学んでどう生かしていくかが大事だと思いました。日本のラグビー界が変わっていくところに立ち会うことができたことを誇りに思っています」
人望は、磨き続けることができる
ワールドカップが終わった翌年、2016年3月1日。廣瀬は引退会見を行い、30年間の現役生活にピリオドを打った。
引退後の廣瀬は、大学院へ進学。大前研一氏が学長を務めるビジネス・ブレークスルー大学大学院で経営を学び、経営管理修士(MBA)を取得した。2019年には東芝を退社し、株式会社HiRAKUを設立。代表取締役として教育ビジネス・人材開発などに携わり、メディア出演・講演・セミナーなど精力的な活動を行っている。
「中、高、大、東芝時代。そして、日本代表のキャプテンを経験してきて、リーダーにとって最も大切なことは、大義、覚悟、ビジョンであるの思いに至りました。そもそも日本代表って何のためにあるのか、自分自身はどうありたいのかを常に考え、試練があったとき、自らが試されるときに揺らがないようにする。自分自身、怪我や不祥事など、悔しいと思う過去はたくさんあります。でも、過去はどうしようもない、今ベストを尽くし続ける。つらいときにこそリハビリをしている、みんなに積極的に声をかけているという姿を見て、メンバーは心を動かされる。人望は、磨き続けることができるんです。私の経験してきた「キャプテンシー」を多くの人に伝えていきたいですね」
スポーツの価値を伝え社会に貢献
メディア発信の狙いは、スポーツの価値、スポーツと社会の接点を作るため。2019年ラグビーワールドカップの前に放送されたドラマ「ノーサイド・ゲーム」への出演も、そういった思いからオファーを受けたものだった。
「ラグビーだけでなく、あらゆるスポーツを誰もがもっと身近に感じることができる社会にしたいと思っています。スポーツを身近に感じることで、スポーツに携わる人たちのいろいろな考え方に触れることができる。未知の世界に飛び込むことは緊張感もあるけど、とても貴重な経験になりますね。『ノーサイドゲーム』の浜畑役は、妻や子どもたちからはとっても喜ばれました。子どもたちが、『友だちから「お父さん、見たよ!」と言われた』と嬉しそうに話してくれました。自分は怖くて一切見られなかったんですけどね(笑)」
ブルーフラッグを応援したい
3年ほど前に、家族と相談して藤沢に居を構えた。廣瀬のお気に入りのランニングコースでもある片瀬西浜・鵠沼海水浴場は、2021年、日本で5例目、民間団体としては日本初の国際環境認証「ブルーフラッグ」を取得したエリアである。
ブルーフラッグとは、デンマークに本部がある国際NGO FEE(国際環境教育基金)による世界で最も歴史ある国際認証制度である。「水質」「環境教育と情報」「環境マネジメント」「安全性・サービス」の4分野、33項目の認証基準があり、毎年審査を受けて更新する必要がある。基準を満たしたビーチ・ マリーナ等はその証として、青いフラッグを掲げることができるのだ。
廣瀬は、鵠沼について、そしてブルーフラッグについても思いを語ってくれた。
「このあたりは、ランニングが本当に気持ち良いですね。海に出て、右に行けば辻堂、左に行けば鎌倉、江の島の島内に向かって走ることもできる。どこに行っても素晴らしい景色で、人々がハッピーになる場。人もおおらかで優しくて、ロイヤリティーにあふれているところが素敵ですね。元々、妻が海好きで、海の近くで家を探していたんですが、探しているときに近所のおじいちゃん、おばあちゃんが気さくに挨拶してくれたんです。それがとても素敵で、子どもの成長にとっても良いのではないかと思い、移住を決めました」
「今、HiRAKUの事業でも『湘南・鎌倉エリアのソーシャルイノベーション活動』を掲げていて、ここ湘南で、地域、世代、社会に貢献できるような活動をしていきたいと考えています。ブルーフラッグは、『海を守り、未来をつくる』というビジョンを掲げてあらゆる世代が気軽に地域貢献を楽しむことができるとても素晴らしい活動ですね。ブルーフラッグをぜひ応援していきたい。湘南ビジョン研究所の活動とも今後ぜひコラボしていきたいですね」
子どもがラグビースクールに体験入部したと嬉しそうに語る廣瀬。湘南での暑い夏は、まだ始まったばかりだ。(了)