逗子市長 桐ケ谷覚氏

逗子のために 逗子とともに

逗子市長 桐ケ谷覚氏

インタビュー・文/加藤美幸 東三条佑圭梨 福室貴雅

 山と海の豊かな自然に恵まれ、都心からのアクセスも抜群。美しい景観と、人々の生活の息遣いが感じられる温かい街、逗子。
魅力溢れるその街を、さらに活気づけ発展させようと尽力する、 逗子市長 桐ケ谷覚(きりがや さとる)。親しみやすい笑顔、鍛えぬかれた健康的な体から放たれるオーラ。72歳という年齢を感じさせない。

 3年前に長年続けてきた商売の道から一転、政治の道へ入った。そこにはどんな思いがあったのだろうか。今なお邁進し続ける彼の半生に迫った。

食料品問屋の次男として生まれて

 昭和24年、秋田県大館市生まれ。男女男女の次男。
豊かな山々や川に囲まれて幼少期を過ごす。
「実家は食料品の問屋を営んでいてね。住み込みで14~15人の社員がいた。おふくろは朝から晩までずっと皆の食事を作っていたな。電気釜や圧力ポットもない時代だから、火を釜戸で燃して。今考えるとすごいことだなあ」。
幼い頃から両親の働く姿を見て育ってきた。大家族の中で役割分担は自然と身についていった。
「両親は忙しくてあまり構ってくれなかったが、手伝いをしながら商売の面白さを学んでいった。自分もいつか商売をやると思っていたから、まさか市長になるとは思いもつかなかったよ」と気さくに笑う。

ひたすら歩いた50km

 中学・高校時代はどんなことをして過ごしていたのか?の質問に、「家業の手伝いをしていたよ」と笑う。高校時代に、強く印象に残ったエピソードがある。毎年行われた競歩大会だ。全校生徒参加のユニークな大会で、50km程離れた場所まで汽車で行き、そこから学校まで真夜中12時に一斉に向かう。「夜から朝にかけてひたすら歩く。競歩ではなく強歩だな。やっと学校に到着すると、和式便所の時代だからね、足がパンパンでしゃがめないの。」と、いたずらっぽく笑う。
この「3年間とも完歩した」という経験を思い出し、還暦を迎えた年に北海道で行われた100kmウォ―クに挑戦した。以後3年連続で参加する程の熱狂ぶりで、年々記録も更新した。スキーでの怪我が原因で参加できなくなった後も、自転車に乗り、参加者たちを鼓舞し続けた。

運命の出逢いと転機

 昭和43年、立教大学経済学部に進学。幼い頃からの車好きが高じて、体育会自動車部に入部した。「部活が楽しくて毎日大学へ通っていたよ。」と笑う。

 体育会テニス部に所属していた奥様と、合同親睦パーティーで出会う。彼女の実家は1882年創業の桐ヶ谷材木店で、4人姉妹の長女として実家を継ぐことになり、桐ケ谷に婿入りの話が持ち上がる。「婿にやるために大学へ入れたのではない、と父に大反対されたよ。」

 食料品の商売と材木の商売の違いはあれど、それでも「人間国宝と呼ばれる人達も、初めは素人だった。スタートは皆一緒だと思えば、どんなことでも出来る。」と決意を固める。
「大切なのは努力するかしないか。何事も一生懸命にやればいい」と語る。
そして、大学を卒業した昭和47年、修業のため建材問屋に就職。昭和56年に桐ヶ谷材木店に入社する。

材木屋から材木住宅工務店へと会社を成長させた社長時代

 平成4年43歳の時に、5代目社長として株式会社キリガヤ社長に就任。時代の流れとともに転換期を予測し、住宅建設に力を入れていった。
「木を知り尽くした材木屋だからこそ、最高の木材住宅が建てられる。木の家を増やすことに使命を感じた」という。そのためには、より一層地元の繋がりや信頼関係が必要と考え、なぎさ通り商店街に加入。その後、逗子市商工会副会長に就任する。

 東日本大震災後、陸前高田市再興へ尽力した「みんなでがんばろう 逗子PROJECT」や、ごみ減量プロジェクトとして、「キエーロ」という生ごみを土に埋めると自然に分解してくれる機器の設置など、精力的に動いた。

皆に愛されるイベントを開催するために奔走した日々

 そして平成27年、逗子市商工会会長と逗子市観光協会会長を任されることになる。「たまたま目立つ活動をしていたから」と謙遜するが、その手腕を見込まれたのは間違いない。
当時のエピソードとして、観光協会イベントの花火大会だが、この予算が財政難で全く足りない。市の補助金も見込めず、寄付金に頼るしかない状況だった。そこはアイディアマンの桐ケ谷。持ち前の手腕を発揮し、協力金の他に有料席を設けるなど、今までのやり方を大きく変えたことで、たくさんの賛同が得られ、花火大会は大成功に終わった。


 オーストラリアから誘致した「スプラッシュウォータ―パーク」というイベントを成功させるために、資金調達に繰り出す。困難な状況だったが、このイベントも成功させた。

「未経験のことにチャレンジするのは楽しい。」と嬉しそうに当時を振り返る。

商売の道から政治の道へ

 市長選挙立候補の話が上がったのは、平成30年、桐ケ谷が69歳の時だ。周囲には出馬しない意思を再三伝えていたが、選挙の2か月ほど前に、他候補者が出なければ市長選挙は無投票で行われると聞いた。市が陥った財政難への強い危機感から、「無投票なら僕が出る」と、出馬の意向を表明。

 「会社経営の経験を生かして財政再建に取り組み、トップセールスによる企業誘致を進めて税収増を目指し、地元の女性が起業しやすくなる環境整備などを行う」と掲げ、12月の市長選で現職を退け初当選、第9代逗子市長に就任した。
「あの時出馬しておけば良かった、と後悔だけはしたくなかった」と話す。
生粋の商売人から政治の道へ。

 「苦労はあるけれど、副市長や周囲のサポートを受けながら、少しずつ慣れてきた。」
市政運営も現場第一主義を貫く。「会社経営で培った経験を活かし、新しい風を吹かせたい」と語った。

街の品格・海の品格

 「逗子の海の魅力は、波が穏やかで風光明媚なところ。浜によって見える景色が違うでしょう。逗子からは、まず江の島が見える。その先には富士山も見えて、晴れの日は伊豆半島まで見える。この景観が一番だと思っているよ。」
都心から一時間、逗子駅から徒歩で海岸まで行けるため、 休日にはたくさんの人が訪れる。
「どこに行ってもゴミがなく、美しい海・きれいな街だと感じませんか?」と聞かれた。確かに海と山、街もとてもきれいだ。

逗子の海を守り、繋いでいくために

 「市民はこの街・海にプライドを持っていますから。しっかりメンテナンスしてくれています。」と言って紹介されたのは、「逗子海岸営業協同組合」のメンバーだ。特に去年は新型コロナの影響で海水浴場が開設されなかった中にあっても、彼らは毎日逗子海岸に来て、海上や砂浜でのパトロール、ビーチクリーン、周辺の清掃など、率先して取組み汗を流してくれた。

 この、海岸組合と逗子市が意見を交わし信頼関係を築いたことは、過去の経緯を考えると、とても大きな進歩と言える。

 そして今年も「逗子海水浴場の運営に関する検討会」を開催。海岸組合や海岸近くの自治会、商工・観光関係者、防犯団体、市民メンバーらにより、夏に向けて海水浴場ルールが検討された。その結果を受け、逗子市はルールを決定。逗子海岸営業協同組合をはじめ多くの関係者の協力のもと、監視や警備活動を強化して海水浴場を設ける方針を出した。(新型コロナウィルスの感染状況によって休場業なども検討する)

ブルーフラッグ取得

 逗子海岸営業協同組合は、厳しい基準を満たした砂浜などに贈られる国際的な認証制度「ブルーフラッグ」を、2022年5月に取得することを目指している。そして、組合からの提案によりこれを官民一体で取り組むことに決めた。

 ただ、逗子市の下水道は砂浜より高い場所に在るため、浜で集めた汚水をポンプアップしなければならない。それには膨大な費用がかかってしまう。

 「課題は少しずつでも解決していきたい。先ずはブルーフラッグ取得を目指すことで、市民・行政が一体となって、海を守る活動をすることが大切だ。」と話す。

根っからの世話好き

 休日の過ごし方は?の質問に、趣味であるテニスやゴルフをはじめ、料理も手がけるという。包丁研ぎから始め、魚をさばく。「切れない包丁で切ったら魚に申し訳ないよね。」と笑う。

 家族や友人たちと毎年スキーへ出かけては、親元から子供たちを預かり指導。初めは滑ることが出来なかった子供達も、2日目には林間コースを滑れる程の上達ぶり。

「上手く伝えて楽しくやってもらうことが大切。怖い、嫌なイメージはダメだよね。縁あってみんな集まっているのだから、楽しんでもらいたい。」と話す。

 現場第一主義を貫く。「根っからの世話好き」ならではの市政運営で、逗子をさらに魅力あふれる街にしてくれるだろう。