江の島海水浴場協同組合 理事長 森井裕幸氏

『西浜にブルーフラッグを掲げたい』

 江の島海水浴場協同組合 理事長 森井裕幸氏

インタビュー・文 / 片山清宏・片山久美

江の島海水浴場協同組合 理事長 森井裕幸氏

片瀬西浜・鵠沼海岸の砂浜に、縦3m、横50mのメッセージ「#STAY HOME」が描かれた。海の家、サーファー、ライフセーバーの団体が主催した、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため自宅から出かけないよう促すための企画である。

その中心を担ったのが江の島海水浴場協同組合理事長・森井裕幸だ。森井は、取材陣のカメラに向けて「これが今の自分たちの気持ち。笑顔で夏を迎えるために今は我慢を」と力強く自粛を呼びかけた。

日本一の来場者数を誇る片瀬西浜・鵠沼海水浴場の責任者である森井。県による「海への立ち入り自粛要請」というかつてない危機の中でも常に冷静で希望を持ち続ける。優しい語り口調と柔和な表情の中にも海を守ることへの強い信念を感じさせる。彼の生き様を追いかけた。

生粋の鵠沼ローカル

森井は1957年、藤沢市鵠沼に生まれた。現在の小田急線「本鵠沼駅」前にあるコンビニエンスストアがある場所が彼の生地である。双葉保育園、市立鵠沼小学校出身という生粋の鵠沼ローカルだ。

「当時、駅前には商店が並んでいて、その一角に父が氷や薪、プロパンガスを売る商店を始めたんです。父は日立製作所のサラリーマンだったから、最初は母の名義でね」

都市ガスがまだ普及していなかった時代、プロパンガスの需要は大きく、そんな時流を見極めて創業した森井の父の商店は、繁盛していた。両親は忙しく働き店を切り盛りしており、森井はそんな両親を見て育った。現在の森井の経営者としての原点は、間違いなく両親の影響を大きく受けている。

「当時、まだお風呂も薪で沸かしていたんですよ。想像できないでしょ(笑)。だから薪も売っていたけど、やっぱりメインはプロパンガス。お客さんが空になったボンベをお店に持ってくるから、新しいボンベに交換するんです。幼いながらも、両親を見て、商売の大変さや楽しさを学びましたね」

長距離ランナーからサーファーへ

森井は藤沢市立鵠沼中学校に進学。運動神経抜群だった森井の中学校の思い出は、部活動の陸上と、その後の人生を決定づけるサーフィンとの出会いにあった。

「小学校の頃から足が速くて中1から陸上部に入りました。1500m走が得意で、鵠中では1番、藤沢市大会でも2位に入賞。走ってばかりだったね(笑)。ちょうどその頃、先輩に誘われて初めて鵠沼でサーフィンを始めたんです。今のスケートパークがあるところ、プールガーデン前だね。ロングボードではなくて、ショートより少し長めのミドル。これが楽しかったんだよね(笑)」

スポーツ少年がそのまま成長し、森井は、陸上を続けるために県立相模台工業高等学校に進学した。相台高はラグビー全国大会優勝を誇るスポーツ名門校である。

「高校でも長距離選手としてがんばって練習していましたね。でも段々と走るだけでは物足りなくなってきちゃったんだよね。長距離って走りながらいろいろ考える時間があるんだけど、走りながら、『このままでいいのかな。陸上続けていていいのかな』って。学校もスポーツ一辺倒で、柔道の授業の時間にさえ一人だけ陸上部の顧問に呼び出されて『柔道はいいからとにかく走れ』と言われたりして」

なかなか目標が定まらないまま、森井の足は徐々に部活から遠のくようになり、その分、地元でサーフィンをしたり、バイクの免許を取って友人と遊びに行ったりするようになっていった。

父から商店を継ぎ、会社を設立

高校を卒業し、いくつかの会社を経験した後、藤沢市内の土木・建設機械のリース会社で順調なサラリーマン生活を送っていた森井。しかし、20代半ばにして突然、人生の転機が訪れる。父に大きな病気が見つかり、店を継いでほしいという打診を受けたのだ。

「働いていた会社はちょうど新しく子会社を作るということで売り上げも好調、自分自身も大きなやりがいを感じていた時だったので、『なんでこのタイミングなんだ』と最初は愕然としました。でも、やるしかないと腹をくくって。退職したあと、父の検査の結果が出てなんでもなかったと分かったときは、ずっこけましたけどね(笑)。」

創業時から父の働く姿を見、実際に店も手伝っていた森井。跡を継いだ後、数年で個人商店を法人化し、順調に社長としてのスタートを切った。景気が良かったプロパンガスの販売業だけでなく、住宅の建て替え時にキッチンや風呂などを手掛ける住宅設備の仕事も増やし、社員も雇うことになった。

「いざ法人化し、自分が社長として経営をするとなると責任が全然違う。やるしかないと気合いを入れましたね。夕方、落ち着いたら海に行ける仕事のスタイルも自分に合ってたんだと思う。ちょうどその頃は、サーフィンだけではなくウィンドサーフィンもやっていました。JWA日本ウィンドサーフィン協会が行うジャパンサーキットプロツアーもプロと一緒に回っていました。仕事をしたら海に行く、海でリフレッシュしてまた仕事を頑張る、たまたま訪れた転機だったけど、父のあとを継いで良かったなと思います」

このころ、森井は、海だけでなく雪山にも通い始めている。20代後半からスキーにはまり、30代半ばからはスノーボードへ。現在は、現役バックカントリースノーボーダーとして海外の雪山にも行く腕前なのである。

JCの仲間は「宝もの」

森井の2度目の転機は、青年会議所(JC)との出会いである。JCとは、「明るい豊かな社会」の実現を理想とし、次代の担い手である20歳から40歳までの指導者を目指す青年の団体。活動の基本は「修練」「奉仕」「友情」で、会員相互の啓発と交流を図り、地域との協働により社会の発展に貢献することを目的としている。

「20代後半の頃かな。藤沢JCの先輩たちから、『森井も早くJC入れよ』と誘われていました。最初は入る気はなかったんだけど、その頃のJCはプロパンガスの業種の会員がいなかったんだよね。JCに新しい風を入れるのも面白いかな、と思って、30歳のときに思い切って入会しました。JCでは本当にいろいろな業種の先輩方がいる。“飲み”を通じて(笑)、たくさんのことを学びましたね。JCの仲間は本当に自分の宝もの」

森井は飲み会に誘われれば必ず出席し、持ち前の愛嬌と社交性で先輩たちに可愛がられた。2年目には神奈川ブロック協議会の監事に抜擢され、県内各市に仲間ができ、JC活動の面白さを実感するようになった。30代後半、さらに上の日本青年会議所に出向。日本全国の仲間とともに精力的に活動し、JC活動にのめり込んでいった。

「現役時代は、サーフ’90や藤沢市民まつりの屋台村の立ち上げに関わりましたね。JCが毎年新しいイベントを企画して立ち上げ、軌道に乗せたら翌年以降は商工会議所青年部に引き継ぐ、という形で、地元にいろんなイベントを定着させていきました。慶應義塾大学SFCの市民大学祭も、元々は藤沢JCを中心に大学と合同で企画したもの。JCの仲間たちと一緒に、行政や大学と一緒になってまちづくりをする。とても楽しかったし、やりがいがあったね」

森井は、JCを卒業後もOBとして活動を続け、その人望で回りの先輩や後輩の仲間たちから推され、2004年にOB会29代会長に就任した。

「OBは本当にすごい人数。錚々たる面々。OB会の会長職は、歴代のJCの先輩方と現役で活躍している会員をつなげる、橋渡しをする役割だと思っていたので、できるだけ懇親を深められるように心掛けました。藤沢はOB会がすごくしっかりしている。月例で理事会・例会をやっているのはここだけじゃないかな」

ビーチサッカーで海を盛り上げる

そんな森井の「宝もの」であるJCのつながりは、藤沢の海に「ビーチサッカー」をもたらした。きっかけは、ビーチサッカー日本代表チーム元監督のラモス瑠偉氏からの提案だった。

「ちょうどラモス瑠偉さんが、FIFA ビーチサッカーワールドカップ日本代表監督を退任した時で、西浜の海の家によく遊びに来てくれていたんだよね。そのとき、ラモスさんが海を見ながら、『こんなに良い海岸があるのにビーチサッカーやらないなんてもったいないよ。やった方がいいよ、協力するから』と言ってくれたんです」

ラモス氏と話をするうちに、森井は、「ビーチサッカーは、『ビーチバレー国内発祥の地』という鵠沼海岸の特性を生かすことができる。ビーチサッカーで海やまちの魅力をもっと高められる」との確信を強めた。すぐにJCの先輩で藤沢市観光協会会長(当時)を務めていた二見幸雄氏に相談し、JCのOBメンバーらで発起会を立ち上げ、市サッカー協会に打診。2年の時を経て、サッカー熱が高まる2014年FIFAワールドカップブラジル大会に合わせて森井を会長とする「藤沢市ビーチサッカー協会」を発足させた。

「ビーチサッカーでまちを盛り上げたいという思いを、二見さんはじめJCの仲間たちが汲み取ってくれたおかげで実現したんです。JCの魅力はなんといっても『仲間』。これが私の財産だね。ただ、いよいよ大会という時になって、言い出しっぺのラモスさんに顧問をお願いしようと思っていたのに、柏レイソルのコーチに就任してしまっていなくなっちゃったのは良い笑い話ですね」

名誉顧問には相模工業大附高(現・湘南工科大附高出身)で、ドイツ・ブンデスリーガで活躍した奥寺康彦氏が就任。2014年8月に第1回大会が行われ、現在も毎年大会が開催されているほか、地元サッカー団体や愛好者を中心としたビーチサッカーの普及活動、指導者の育成などに貢献している。

ブルーフラッグ認証ビーチをめざす

森井は2018年に江の島海水浴場協同組合理事長に就任。3年目となる2020年度は、海辺の国際環境認証「ブルーフラッグ」認証取得という新たな挑戦に立ち向かう。

片瀬西浜・鵠沼海水浴場は、1990年のサーフ’90までは家族連れが多い普通の海水浴場だったが、東京から多くの海水浴客が来るようになり、海岸の状況は一変した。ビーチでの喫煙や飲酒はもちろん、深夜まで大音量で音楽が流され、近隣住民からの苦情も増え治安が悪化。その反動として、海の家の閉店時間が早められるなど、大幅な規制強化につながってしまったという。なんとか解決できないかと思い悩んでいた時に出会ったのが「SDGs(持続可能な開発目標)」そして「ブルーフラッグ」だった。

「ちょうど日本でSDGsの取組みが盛り上がってきて、自分なりに勉強していたんです。でも、学べば学ぶほど、『SDGsを推進するならブルーフラッグを取らないとダメだ』と思うようになったんです。ブルーフラッグの認証取得基準をクリアすれば、SDGsの全17項目の目標達成につながる。ブルーフラッグのことは、既に取得している由比ガ浜茶亭組合の増田組合長から話を聞いていたので、自分の中でSDGsとブルーフラッグが自然とつながりました。自分もいい歳。残りの人生をかけて海水浴場を良い方向に持っていくにはこれしかないと」

ブルーフラッグとは、デンマークに本部がある国際NGO FEE(国際環境教育基金)による世界で最も歴史ある国際認証制度。①水質、②環境教育と情報、③環境マネジメント、④安全性・サービスの4分野、33項目の認証基準があり、毎年審査を受けて更新する必要がある。基準を満たしたビーチ・マリーナ等はフラッグを掲げることができる。

認証を受けるためには、行政、企業、環境・観光団体、漁業関係者、マリンスポーツ関係者、ライフセーバー、市民など、多くの団体や地域のキーマンの協力が必要である。まさに、JCをはじめとした多くの仲間たちと密なネットワークを作り上げてきた森井が掲げるにふさわしいビジョンだったのである。

「私が考える理想の海岸は、安全、安心で、家族みんなで来て楽しめるビーチですね。ゴミのない綺麗な砂浜、生分解性洗剤を使用した環境配慮型の海の家、プラごみゼロもめざしたい。もちろん、障がい者やシニアも含め、誰もが楽しめるためにバリアフリービーチへの対応も必要。子どもが思い切り遊べるようにビーチに滑り台やトランポリンがある大型遊具を設置したいと思って、藤沢市とも調整しているところです」

インタビューの最後に、同席した江の島海水浴場協同組合の事務局の方に森井の人柄について聞いた。

「理事長は、自分から前へ出るのではなく、周りのみんなから信頼され、勧められてリーダーになっている。そしてやるからには先頭に立ってしっかりリーダーシップを取っているところが素晴らしいんです。組合に有益なことだけではなく、みんなが良くなればいいんじゃないということもよくおっしゃっています。そういった他人を思う優しさやお人柄が魅力ですね。とても尊敬しています」

ブルーフラッグ認証取得に向けて森井の挑戦は始まったばかり。今後の活躍を楽しみにしたい。(了)