公益社団法人藤沢市観光協会 会長 山口幸雄氏

“選ばれる観光都市”藤沢をめざして

公益社団法人藤沢市観光協会 会長 山口幸雄氏

インタビュー・文 / 片山清宏・片山久美 ・梶原聖子

公益社団法人藤沢市観光協会 会長 山口幸雄氏

湘南海岸沿い国道134号線に架かる片瀬橋のたもと、ガラス張りのスタイリッシュな建物が、藤沢市観光センターだ。扉を開けると、英語・中国語・韓国語などの色鮮やかな観光パンフレットが揃い、江の島を楽しみたい外国人客に様々な魅力を伝えてくれる。

湘南・藤沢・江の島エリアは、年間1900万人の観光客が訪れる日本屈指の観光地である。特に藤沢市は近年、インバウンド観光を推進し、外国人観光客にも人気のスポットとなった。その観光振興を一手に引き受けるのが公益社団法人藤沢市観光協会であり、その司令塔が、会長の山口幸雄である。

サマースーツを颯爽と着こなし、山口はインタビュー場所である観光センターに現れた。その顔に刻まれた深い皺は、長年藤沢市を牽引してきた経験によりつくられたもの。威厳を感じさせる一方で、時折見せる穏やかな微笑みをより印象づけている。現在72歳。そのほとんどを藤沢市のために尽力してきた山口の半生を追った。

老舗旅館の次男として生まれて

山口は1948年、藤沢市片瀬に生まれた。父・倉吉氏は藤沢市議会議員を務めるかたわら、母とともに旅館を2軒営んでいた。旅館の名は「洗心亭」。江の島の島内と「すばな通り」にそれぞれにあった。

「市議会議員だった父は休みがなく、母も旅館の切り盛りで忙しかったので、小さいころ両親にかまってもらった記憶はあまりないですね。どちらかというと従業員の方々によく可愛がってもらっていました。ただ、毎年、親戚の子どもたちと一緒に熱海に連れて行ってくれたんです。家族みんなが揃ってとても楽しかった数少ない思い出ですね」

旅館のあった「すばな通り」とは、江ノ電「江ノ島駅」と湘南モノレール「湘南江の島駅」から江の島に架かる弁天橋に向かう通りのこと。昔から、江島神社詣の参詣ルートとして賑わいのあった街道である。江の島は首都圏からのアクセスも良く、昔から観光名所として人気を集めていたこともあり、1950年代以降は、旅館業も全盛期となった。さらに、1960年代の高度経済成長期も後押しとなり、企業や学校の団体旅行客の誘致に成功し繁栄を続けた。

「当時は黙っていてもお客さんが来てくれた時代でしたね。よく小学校の修学旅行生がバスで来て旅館に宿泊してくれました。旅館は朝から晩まで休みがなくて大忙し。活気にあふれた良い時代でした。『すばな通り』だけでも10数件の旅館が軒を連ねていたんですよ。みんな繁盛していました」

湘南学園で自由奔放に育つ

山口は、男女共学の幼・小・中・高一貫校からなる総合学園「湘南学園」で学んだ。1933年に鵠沼に創立され、地元からの評価も高い歴史と伝統ある私立学校で青春時代を過ごしたのである。

「学園は自然に囲まれて環境も良かったし、生徒はみんなのびのびとしていましたね。両親からもあまり、勉強しろと言われず、自由にさせてもらっていたので、放課後、友達と海に行ってよく遊びました。中学では軟式テニス部では市大会で準決勝進出、高校では当時流行していた『ザ・ベンチャーズ』のコピーバンドを結成して文化祭でドラムを叩いたりして。自由奔放にやらせてもらっていたけど、母の旅館の手伝いもちゃんとしていましたよ。食堂のレジ打ちとか。だから今でも算数が得意なの(笑)」

湘南学園の建学の精神の中に、「社会の進歩に貢献できる、明朗有為な実力のある人間の育成」という教育目標があり、現代の社会状況と照らして含蓄の深い指針である。山口は、市議議員の父と旅館を営む母の背中を見ながら、学園の建学の精神のとおり、地域や社会のために貢献する人生を歩むべく、多くの仲間とともに充実した学生生活を送った。

家業の旅館「洗心亭」に就職

政治家である父と家業である旅館を経営する母の元で育った山口にとって、大学卒業後の進路選択は、その後の生き方を決める選択だった。

「物心ついた頃から旅館を手伝っていたこともあり、自然な流れで旅館に就職しました。旅館のうち1軒を兄が継いでおり、自分は将来、母が経営するもう一つの旅館を継ぐことになるだろうと思っていたので、早いうちからいろんな仕事を経験させてもらいました。若いうちは正義感が強くて、泊まりに来た修学旅行生が騒いでいるのを見て『うるさい!静かにしなさい!』と怒鳴っちゃったりして。怒られた生徒がそのことを作文に書いたらしく、後で群馬の小学校まで校長先生に謝りに行ったこともありました(笑)」

1970年代当時、海水浴と言えば夏場のレジャーの代名詞。片瀬西浜・東浜に一夏で800万人が訪れた海水浴最盛期の時代である。

「夏は海の家も経営していたので、それも手伝っていました。海岸に海水浴客があふれて歩けない状態。今とはだいぶ違いますね。海の中も芋洗い状態で。観光バスで団体客が来てすごかったですね」

父の死、政治家の道へ

家業の旅館を手伝う傍ら、藤沢青年会議所(JC)で地域貢献活動にも参加。地元の仲間ができ順調な人生を歩んでいた。しかし、突然人生の転機がやってくる。山口が39歳のとき、父・倉吉氏が他界したのである。藤沢市議会議員10期、藤沢市議会議長歴代最長の8年4ヶ月(第10代~第12代議長)務め、そして初代藤沢市観光協会会長を勤め上げ、藤沢市の発展に大きく貢献した倉吉氏を失った地元の失望感は大きく、支援者からは、後継者として山口に地盤を継いでほしいという声が多く上がった。

「後援会の方々から『お父さんの後を継ぎなさい』と勧められましたがお断りしました。選挙の大変さも分かっていましたし、当選後も休みなく市のために働いている父をずっと見てきました。市議会議員として地域のため人のために働いている父の姿を見ていて尊敬して、その責任の重さを分かっていたからこそ、今の自分にはまだそれを負うことはできないと判断したんです」

父の死後、旅館「洗心亭」も閉館することになる。バブル全盛期、客層は団体客から個人客へと変化。社員旅行を廃止する企業も多くなり、時代にうまく対応できなかった旅館の多くは廃業し、その跡には、次々とマンションが建設される。古き良き江の島の街並みが変わっていくのを、山口はひしひしと感じていた。

藤沢市市議会議員に初当選

旅館業を辞めた山口は、藤沢JCの仲間の会社で勤務していたが、1999年、地元の支援者から推され、ついに藤沢市議会議員選挙に出馬することになる。51歳のときである。脳裏には幼い頃からの原風景、まち全体で観光客を迎え入れ、おもてなしに尽くした優しい江の島の街並みがあった。

「父の地盤があるとは言っても、もう10年以上前のこと。妻も最初は反対していたし不安はありましたが、『地元のためになるのなら』と、今回は迷わず引き受けました。多くの有権者に自分の思いや政策を伝えることは難しく大変なこと。当選結果が出るまでは本当に緊張しましたね」

山口は、その熱意と人柄を慕われ見事当選。その後4期連続当選を果たし、市民からの要望を次々と市政に反映させていった。2009年には、第38代藤沢市議会議長に就任。2011年の東日本大震災という日本全体が難局を迎えたこの時期、政治の立場から藤沢市の舵取りを力強く担ったのである。

父の背中を追いかけて〜藤沢市観光協会会長に就任〜

2016年、山口は昭和36年設立した「藤沢市観光協会」(当時は、任意団体)から数えて第7代会長に就任した。初代会長はほかでもない、父・倉吉氏。山口は、父の築いた藤沢の観光政策をさらに発展させるべく、市議時代から観光協会理事、副会長を歴任し、誰よりも観光を学び、精通していった。それが実を結び、父倉吉氏・兄雄司氏と3代で観光協会会長という大役を担うことになったのである。

「前任の会長はJC、湘南学園の先輩の二見幸雄さん。尊敬する二見先輩から会長職に推薦していただいてとても光栄でした。ただ、引き受けるためには、市議を辞めなければいけなかった。4期目の市議の仕事はとても充実していましたが、これからの政治は若い世代に任せようと、私自身60代半ばでの新しいチャレンジを決意しました」

父、山口と2代に渡り築き上げた市議会議員の地盤は、山口の長男である政哉氏が継ぐことになった。

観光協会会長に就任した山口が力を入れたのは、江の島を「通年観光」とすること。夏場の海水浴客の減少を補うため行政や民間企業と連携しながら、春の「湘南江の島春まつり」、夏の「江の島マイアミビーチショー」、秋の「ふじさわ江の島花火大会」、冬の「湘南の宝石ライトアップ事業」など四季折々の観光事業を実施。インバウンド効果も手伝い、藤沢市を訪れる観光客はこの10年で50%以上伸び、1900万人を越えるという過去最高レベルの結果となったのである。

ブルーフラッグ取得を応援したい

現在、西浜は海岸の国際環境認証「ブルーフラッグ」の2021年の認証取得に向けて動き出している。ブルーフラッグとは、デンマークに本部がある国際NGO FEE(国際環境教育基金)による世界で最も歴史ある国際認証制度である。①水質、②環境教育と情報、③環境マネジメント、④安全性・サービスの4分野、33項目の認証基準があり、毎年審査を受けて更新する必要がある。基準を満たしたビーチ・マリーナ等はフラッグを掲げることができる。

全国トップの海水浴客数を誇る西浜での取得は、安全・安心できれいな海づくりの象徴事例として、国内のビーチへ大きな影響を与えるだろう。このビッグプロジェクトに対し、山口も積極的に応援していきたいと語る。

「西浜も東浜も下水管が整備されていて公共下水道に繋がっているんです。これは全国的にも珍しい取組。海を綺麗にする対策はどこよりも先んじてやってきました。来年、西浜でブルーグラッグを取得して、世界中からオリンピック選手や観光客をお迎えしたいですね」

2020年4月、新型コロナウイルス感染症拡大により緊急事態宣言が発令。江の島の旅館や商店も自粛を余儀なくされ、街から観光客が消えた。この現状に、山口は語る。

「本当は今年、オリンピックに向けて様々なイベントを打って盛り上げていくところでした。そこに新型コロナウイルスの感染が広がり、オリンピックも延期。見込んでいたインバウンド需要も激減しました。もとの状態に戻るまでどれくらいかかるか、今は全く見通せないですね。でも、選ばれる“観光都市”藤沢に向けて、ゼロからまたやり直す気持ちでがんばろうと思っています」

旅館経営者として、市議会議員として、数々の困難を乗り切ってきた山口が語る言葉には、強い信念がこもっており、どこまでも頼もしい。ブルーフラッグの旗印のもと、新しく生まれ変わった“観光都市”藤沢を見られる日が楽しみだ。

インタビューの最後に、山口のオフの過ごし方について聞いてみた。

「高校時代から始めたウクレレを楽しんでいます。最近は演奏会のために弾き語りも練習しているんですよ」

(了)